犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第2章

2007-05-10 13:59:25 | 読書感想文
第2章 父の無念を晴らすため私は闘い続ける - 通り魔殺人・被害者遺族 大鞭孝孔さんの独白

身内を殺されたことの不条理や絶望は、殺された人にしかわからない。殺されたことがない人にいったい何がわかるか。これは真実である。あらゆる経験は、経験したことがない人にはわからないからである。従って、殺されたことの論理は、殺された側にしかない。殺された側以外には、論理は存在しない。藤井氏による『殺された側の論理』というタイトルは、強烈な皮肉を秘めている。

大鞭孝孔さんは次のように述べる。「怒りで体が震えて、まわりが見えなくなるのです。犯人に対する怒りです。殺意です。父の仇をとるということです。父が殺される理由なんてないわけですから」。客観的で実証的な法律学は、このような遺族の言葉に返答することができない。返答できないからこそ、法律家はそれを自身で理解できる言語に変換する。いわく、「遺族は感情が高ぶっており、冷静さを欠いている」。そこでは、感情が高ぶっているからこそ真理を捉えうるという逆説が見えていない。

あらゆる経験は、それを経験したことがない人にはわからず、実際に体験した者のみが真理を捉えることができる。この疑いようのない事実が明らかになることは、法治国家の建前からは非常に恐れられる。裁判官よりも被害者遺族のほうが真実を見抜いていることが暴露され、法的安定性のイデオロギーが揺らぐからである。実際に経験したことがない人には物事を語る資格がないという恐るべき真実を認めるならば、近代刑法の裁判制度は崩壊してしまう。被害者遺族は真実の言葉を語るが、イデオロギーは真実の言葉を恐れる。

かくして哲学なき法治国家は、その存立を維持しようとして、理屈の逆転を図ろうとする。すなわち、実際に経験したことがない人のほうが物事を中立・公平に判断することができるのに対して、実際の当事者は感情的で冷静さを欠いてしまい、物事正しく判断できないという理屈である。これが法治国家によるレッテル貼りである。哲学的な逆説的真実は、近代国家の客観性と実証性の前に軽視され続けている。

大鞭さんはまた、次のように述べている。「被害者遺族にとって、加害者が己の死をもって罪をあがなうのは一つの『償い』になります」。これは図星である。ここで死刑廃止派が、報復によっては遺族の本当の償いにならないと主張したところで、遺族本人がそう言っているのだから完敗である。遺族本人が一つの償いになると言っている以上、その地点を離れて「本当の償い」など存在しない。赤の他人が当事者本人に対して真実をお説教できるわけがないからである。

通常の倫理観を持った人間であれば、大鞭さんによる「償いになる」という言葉と、死刑廃止派による「償いにならない」という言葉とでは、表面上の理屈を超えた論理の深さの違いは本能的に見抜けるであろう。大鞭さんの言葉は突き刺さるが、死刑廃止派の言葉は滑っているからである。

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