犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

オリビエーロ・トスカーニ著 『広告は私たちに微笑みかける死体』より

2013-04-12 23:07:45 | 読書感想文

p.28~

 広告は罠である。幸せなおバカさんたちみたいに消費する快楽をあおり過ぎて、消費者を食欲不振に追い込んでしまった。解雇や失業などにびくびくしながら、やっとの思いで月末のやり繰りを終え、汗水たらして働いている一般大衆は、毎日少しずつ、広告のような生活はできないという確信を深めていく。

 まず、がっかりする。次に、この広告は商品を売るためにつくられているはずなのに、実際には、自分たちを笑い者にしているとわかる。広告は騙されやすい消費者の欲望をかきたて、誘惑し、必要性をつくりだし、最後には持っていないことに罪責感を覚えさせる。広告は大衆をたらし込み、手慣れたテクニックで欲望に「火をつける」。選挙の票数を獲得するように我々の欲望を獲得していく。

 消費が成り行きまかせなのは、広告があまりにも長きに渡って大衆を欺いてきたことによるのだ。広告は、商品の品質について大衆を欺く。広告は、商品を高く買わせるために大衆をあおる。広告は、大衆に嘘をつく。広告は、次なる決定的な疑問をいつまでも回避しつづけることはできない。なぜ、昨今の経済危機の間にも、さらに消費しなければならないのか?


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 現在の私は、いかに広告費を抑えつつ効率的に集客をするかに頭を悩ませている立場ですので、学生や公務員であった頃に比して思考が汚れています。例えば、タウンページへの掲載は決して安くないので、費用対効果の検討は避けて通れず、綺麗事を言っている余裕はありません。犯罪被害者の法律相談を受けるという点を取っても、他の法律事務所に事件を取られないような策略を練らざるを得ず、いつの間にかビジネスをしていざるを得なくなっています。

 「1人で悩まずご相談ください」「今すぐお電話ください」というのはお決まりの広告文句ですが、私はその偽善臭が大嫌いでした。しかし、自己主張の強い法律事務所の広告と並べられたときに、他者の悩みを慮ったような広告は、競争で負けてしまうことも思い知りました。私はその時、広告の世界は「謙虚になったら負け」というルールに支配されていることを痛感しました。偽善臭に敏感でありたいという信念も、結局は事務所の経営状況に左右されているようです。

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