犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

古賀茂明著 『官僚の責任』

2012-09-22 23:28:00 | 読書感想文

p.120~「霞が関は人材の墓場」より

 国家公務員は国民の税金で生活しているのであり、その代わりとして、国民のために奉仕する義務がある。国民の生活を第一義に考えるべきなのは当然だ。そう考えれば、守るべきは公務員どうしで助け合うためのシステムであるわけがない。

 国家公務員採用試験に合格し、官僚になった当初は、ほとんどの人間が「国のために働く」という志を胸に抱いていたはずなのだ。若手官僚のなかには、まだまだやる気にあふれた優秀な人材がいるのは事実である。

 ところが、そういう官僚たちも、いつしか初心を忘れて、しだいに内向きになっていく。国益より省益を第一に考えるようになっていく。国家公務員試験という難関を突破した優秀なはずの人材が、いつしか国を食いつぶすだけの存在に堕していくのである。


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 私が以前に働いていたのは、いわゆる霞が関とは別の霞が関であり、私はただの木っ端役人でした。そんな組織であっても、郷に入って郷に従っているうちに、色々と感じることはあったように思います。「国家公務員は国民の税金で生活している」「国民のために奉仕する義務がある」といった言葉は、事あるごとに訓示のように聞かれ、私や同僚においても当然の規範として身に付けられていたと記憶しています。ところが、その職務倫理は、なぜかそのままの形で、公務員同士で助け合うためのシステムに直結していました。

 「国のために働く」という初心はいかにも青二才であり、組織人として現実に妥協することはやむを得ませんが、同時に「国民のために奉仕する義務がある」という原則は、多くの同僚において忘れられていなかったと思います。ところが、そのことがそのまま「国民のために奉仕する義務がある組織」の職務倫理を守ることになり、必然的に内向きになっていくという現実がありました。ここは言葉にすると微妙なところで、「国のために働く」という初心を忘れるという表現は不正確だと思います。

 1人の人間の人生というものは、誰しもこの体の中に閉じ込められており、大局観という錯覚を信じたふりをするのは非常に困難なことだと思います。鳥瞰的な視点が自身の体を突き抜け国家に至る場合には、組織で揉まれずにいわゆるセカイ系に至るか、あるいは組織に突き当たって屈折して国に至るか、両極端の思考に流されがちだと思います。

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