犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

命あっての人権

2007-03-08 20:35:22 | 実存・心理・宗教
人権のうちで最も重いものは、当然のことながら生命権である。しかし、対国家権力というカテゴリーで人権という概念を捉える限り、殺人行為は人権侵害行為のカテゴリーには含まれない。国家による殺人、すなわち死刑のみが人権問題として捉えられる。人権活動家は死刑廃止運動には熱心だが、被害者遺族の存在については眼中にないのが通常である。死刑の原因となった最初の殺人行為については、見事に忘れ去られる。

被害者遺族の人権論が主張されるようになった原動力は、このような人権という概念に対する強烈な違和感にある。死刑で殺されようと、犯罪で殺されようと、同じ生命である。人生は一度きり、命は一つだけである。この驚くべき現実を直視するならば、最大の問題は、人間の生と死そのものでしかあり得ない。死の原因が国家による死刑か、私人間の犯罪行為かは、副次的に発生する現象に過ぎない。

近代刑法のシステムにおいては、凶悪犯人は他人の生命を奪っていても、刑事裁判では自らの人権を主張することが当然のこととして認められる。このようなシステムに対して直感的な違和感を持つか否かが、法律学と哲学の分かれ目である。「人権のうちで最も重いものは生命権である」という命題の捉え方にかかわるからである。そして、被害者遺族の人権論は、法学的ではなく哲学的である。

法律学のカテゴリーは、あくまで社会科学の客観性を前提とする。人権とは普遍的なものであり、互換性がなくてはならない。すべての人間には人権が平等に保障され、近年では人権の国際化とも言われる。このようなカテゴリーは、被害者遺族の側から見れば、いつの間にか人権の意味が軽くなっているという違和感をぬぐい得ない。他人の生命を奪った殺人犯の人権が手厚く保障されているのに、被害者の生命権がきれいに忘れ去られているからである。

人生は一度きり、命は一つだけである。この恐るべき現実と直面しつつ生きていくことは苦しい。しかし、事実は事実である。哲学者や宗教家は好きでこの現実に直面しているが、被害者遺族はやむを得ずこの苦しい現実に直面させられている。被害者遺族の語る「人権」は、人権派の言う「人権」ほど軽いものではない。それは、取り替えの効かない一度きりの人生という緊張感を含み続け、人生の根源的な苦悩を経ている。被害者遺族の語る「人権」は、そのまま「実存」と言い換えることができる。従来の法律学の人権論では、その問題の所在すら捉えることができない。

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