犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

茂木健一郎著 『脳の中の人生』

2007-09-25 19:13:24 | 読書感想文
法律学において、条文の一言一句の解釈をめぐって争いが起きることは必然的である。条文とは、この客観的世界に実在するものではないからである。それは、世界のどこにもない仮想である。我々が条文だと言っているものは、脳内の神経細胞の活動において、条文の写しとして表れたクオリアのことである。従って、条文解釈の争いは政治的な政策論としての意味しかなく、単にこの世の生活における便宜の問題に過ぎない。客観的世界に条文という実在が存在すると思ってしまうと、それには唯一正しい解釈もあるように思えてしまい、神学論争となって決着がつかなくなる。

この世の抽象名詞は、すべて脳内における1千億個の神経細胞の生み出すものである。茂木氏の哲学的なところは、この脳神経系のプロセスの可視化は、被験者以外の第三者の脳内における知覚と認識に依存しているという構造を見落とさないところである。すなわち、1千億個の神経細胞の動きは、それとは別種の1千億個の神経細胞の動きによって把握されるしかなく、それは相互依存的であるということである。誰しもそのネットワークの中に投げ込まれているしかなく、特権的に見下ろす場所に立つことはできない。他者の脳は自己の脳においてあるしかなく、逆に自己の脳も他者の脳においてあるしかなく、しかもどの人間も自己であり、どの人間も他者である。これは目が回る話であるが、目を回すことすらもできず、気が遠くなる話であるが、気が遠くなっている暇すらない。

しかし、多くの人間はこのネットワークの構造を忘れて、壮大な仮想世界を作り始める。法律の体系もこの1つである。法解釈学の命は客観性である。これを単に言語ゲームの表れだとして、客観的に存在しないことを前提としつつ、間主観的な合意の産物として接している分には問題ない。ところが、人間は閉じられた専門的な言語ゲームの中に入ると、その整合性の維持に夢中になってしまう。「刑法では類推解釈は許されないが拡張解釈は許される」というルールを作ってしまうと、今度は「類推解釈と拡張解釈は区別できる派」と「区別できない派」が生まれて論争を始めることになる。この論争にはまって熱くなると抜け出せなくなる。

仮想の世界の要素がその本性を全うするには、現実世界との対応はむしろ邪魔になってくる。そして、仮想世界の固有の論理を追求することのほうが本来的な問題となる。これがアカデミックな刑事法学である。犯罪被害者が長きにわたって見落とされたのは、刑事法学の主流がこのような方向を目指していることの副作用である。刑事法学者も、もちろん最初から仮想世界を目指していたわけではない。死刑か無罪か、人間の一生を決めてしまうかも知れない条文の解釈は峻厳なものであり、それに携わるのは社会のためになるとの自負が根底にある。しかしながら、客観的世界に条文という実在が存在するとの信仰は、安易に自己を特権的な場所に立たせてしまう。専門家の被害者に対する独特の「冷たさ」は、突き詰めればここに端を発する。

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