犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

高校野球のエースの連投について

2014-03-22 22:46:13 | 言語・論理・構造

 近年、高校野球を巡るニュースでは、主戦投手(エース)が連投して肩や肘を壊すことの問題点が多く論じられていると思います。そして、近時の我が国のブラック企業との類似性について指摘される意見も耳にすることがあり、私は妙に納得させられています。これは、論者の分析の鋭さによって初めて気付かされるというのではなく、人間の精神の構造や日本文化の体質に対する洞察の深さに驚くというのでもなく、理屈を言う前に単に結論が先にあって、端的に両者が似ているということです。

 現実問題として、目の前に勝ちがあり、是が非でも勝ちたい、負けたら何もかも終わりである、頼むから勝たせてくれという切羽詰まった状況のとき、その場を支配する権力を持つ人物が採る行動は、ほぼ決まっていると思います。すなわち、権力において劣り、かつ実力において秀でている者に対して命令し、かつその場を任せて頼り切ることです。勝利に全ての価値があり、敗戦には価値もない勝負の世界において、勝つ目的のための最善の行動を採らないなど意味がわからないからです。

 目の前の勝ちがあるというのに何故わざわざ負けを選ぶ奴があるか、お前は何をしに球場に来ているのか、つべこべ言わずに言われたことをやれ、寝言は寝て言えという絶対的な論理は、権力者の独断ではなく、戦う集団の一致した意志だと思います。上位進出のためにエースを温存したがために初戦で足を掬われるなど本末転倒であり、いったい何のために何をやっているのか、勝つために野球をやらないなら何の目的で野球をやっているのかと問われれば、この論理に対抗できる論理はないと思われます。

 高校野球をブラック企業になぞらえることは、汗を流してひたむきに1個のボールを追いかける球児に失礼だという意見も耳にしますが、これもその通りだと思います。両者を科学的に比較して分析することは無意味です。ただ、本当に無理な連投して肩や肘を壊し、野球人生に悪影響を残してしまうエースが非常に気の毒だと思うのみです。そして、「投げないことは許されない」という形の論理で、誰が許したり許さなかったりするのかが不明のまま、受動態の命令が示されることの絶対的な力を恐れるのみです。

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