犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『死の壁』

2007-07-04 18:17:21 | 読書感想文
養老孟司氏の法律家や裁判制度への視線は、非常に皮肉に満ちており、手厳しい。同じ土俵に乗ることなく、図星を突いた上でそれを笑い飛ばし、自分はさっさと消えてしまう。このような芸当ができるのも、人間は誰もがいずれ死ぬこと、自分もいずれ死ぬべき存在であることを直視しているからである。多くの人が逃げ回っている死を直視することにより、逆に死が怖くなくなるという逆説である。

法治国家を維持することに命を賭けている人々からすれば、養老氏のような突っ込み方には、手も足も出ない。従って、無視するしかない。刑法学界においては、死亡時期に関して脳死説と三兆候説(心臓停止・呼吸停止・瞳孔散大)が対立し、長々と争われているが、ここでは養老氏の突っ込みは禁句である。「お前らがそんな風に論争することができるのも、お前の脳と心臓が止まっていないからじゃないか」と言われれば、刑法学者の格調高い論文もぶっ飛んでしまうからである。


p.70~より抜粋(脳死と臓器移植法について)

もともと自分が死ぬのは何かの間違いだと思っている現代人ばかり揃っています。「何で俺が死ななくちゃならねえんだ」と思っている時に、「でも、一体どこから死んだってことにするんだ」という議論を吹っかけられても、「ああ、面倒くせえ」としかならない。

はっきり言えることは、今の時点では結局「生死の境」は死亡診断書にしか存在していないということです。そしてそれは社会的な死に過ぎないということ。そういう決め事はしておかないと遺産相続書が書けないとかそういう事情からなのです。

p.113~より抜粋

脳死臨調の少数意見のなかには、「人は死んだらモノである」という主張もありました。これは移植賛成派の意見だと思われるかもしれません。「モノなんだからどうしようが自由だろう」と続きそうなものです。

しかし実際にはこれは反対派の意見なのです。その理由は「死者には人権が無いから」ということでした。主張したのは法律家でした。法律の世界では人権が無いのがモノで、あるのが人間だということになっている。一般の感覚からは非常に遠いとしか思えない理屈ですが、ともかくその方はそういう立場でした。

これもずいぶんおかしな話です。死体がモノだというのであれば、生きている人間もモノです。対象が生きているか死んでいるかと、それがモノかモノじゃないかは関係ありません。生きているからモノじゃない、というのならば体重なんか計るんじゃない、と言いたくなります。

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6 コメント

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質問ですが・・・ (法哲学者X)
2007-07-05 18:23:33
興味深く拝読しています。そもそもの疑問なのですが、犯罪被害者の法的位置について質問してもよいですか?社会契約説の考え方からすれば、私たち個人の自然権を守るために、各々が自然状態で有していた自己防衛権を政府(国家権力)に凝集させるというのが社会契約説の考え方ですよね。ならば、犯罪を防げずに私たちの自然権(ここでは生命)を奪うような事態を発生させてしまった政府は、そもそもの契約に違反してしまっているわけだから、犯罪の被害者に政府としてできる限りの補償をすべきではありませんか?なのになぜ政府は被害者に冷たいのでしょうか?
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ありがとうございます。 (法哲学研究生)
2007-07-05 21:43:56
コメントをありがとうございました。
うーん、困りました。

ちょうど1週間前、光市母子殺害事件の被害者である本村洋さんは、「遺族としては聞くに堪えない3日間だった。 亡くなった者への尊厳のかけらも見られない」と述べていました。

国から補償を受けられれば、本村さんの怒りは少しは収まるはずである。本村さんに対してはカウンセリングによって心のケアをすべきであり、それによって心の傷は少しは癒されるはずである。・・・このような意見は、ほとんど表に出てきませんでした。

これで答えになりますでしょうか?
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有り難うございます。 (法哲学者X)
2007-07-06 17:31:04
社会契約説を前提とすれば、「治安は政府=国家が守る」という契約を国民にしている以上、犯罪被害者に対しては、①国家が無資力の加害者に代わって損害賠償金を全額肩代わりする、②犯罪被害者の精神的ケアを無料のサービスとして提供する、のが当然ではないかと思います。これらを国家が実施しないならば、国民に自己防衛権を戻し(=銃刀法等の廃止や正当防衛の要件緩和)、犯罪被害者に処罰権(仇討の権利)を認めるべき、という論法になりませんかね。こうすれば、犯罪被害者の法的地位が明確化すると同時に、近代法の理念の裏側にある矛盾を問題化できると思うのですが、いかがでしょう?

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ありがとうございます。 (法哲学研究生)
2007-07-06 20:53:34
コメントをありがとうございました。
うーん、大変困りました(笑)。

時や場所によって変わるような制度は、相対的である。絶対的なものは、時や場所によって変わるわけがない。国民に自己防衛権が認められた時代もあり、認められなかった時代もあるということは、いずれも絶対的な真理ではない。従って、これから国民に自己防衛権を戻したとしても、単にそれだけの話である。

これで答えになっているでしょうか?
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二週間ほど考えました。 (法哲学者X)
2007-07-21 16:14:46
確かに「答え」なのですが、なんとなく納得が行かず、考えていました。どちらも「真理」ではないのですが、自分や家族を自分たちの力で守る(防衛する)ということは、人間にとって「より根元的」な態度・生き方のように思えるのです。

9条で武力放棄しても日本を襲う国はないでしょうが、主人が留守の間に妻と子どもを襲う少年は存在しているわけで、米国のgated communityに典型的に示されるように、自己防衛権を国民に戻す(というか、自己防衛権を勝手に行使する)ことの方が、重要であるように感じているからかもしれません。

存在論や「死者を返せ」という遺族の言葉という法哲学研究生さんの考え方に引き付けて考えれば、私たちにできることは「被害に遭わないこと、被害に遭わないように努力すること」しかないのかなぁと思いました。そして、それが予防や安全を重視する今の社会の在り方・考え方と重なり合っているようにも思えるのです。

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おっしゃる通りです。 (法哲学研究生)
2007-07-22 14:44:31
法哲学者Xさんのおっしゃる通りです。
二週間も考えて頂いて申し訳ありませんでした。

形而上の論理(ロゴス?)と形而下の論理(ロジック?)が入り混じっていて、同じ単語を使っていても意味が食い違うことが多い話なのですが、法哲学者Xさんのおっしゃっていることは、その通り正解だと思います。
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