犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

下村湖人著 『次郎物語・中巻』

2010-02-10 23:57:55 | 読書感想文
第4部  p.397~

 僕は今、無数の敵に囲まれているような感じがする。そのために僕の内部には、子供のころの闘争心や、策謀や、偽善や、残忍性や、その他ありとあらゆる悪徳が、ふたたび芽を出しはじめたらしい。しかも、僕は、そうした悪徳に身を任せることに一種の快感をさえ覚えはじめている。恐ろしいことだ。僕はこの誘惑に打ち克たなければならない。
 だが、僕は果してこの誘惑に打ち克つことが出来るのか。今の気持では不安で仕方がない。僕は、敵という観念を否定しつづけて来た。そして愛と調和と、そしてそれに出発した創造のみが人間の生活にとって有用だと信じて来た。だがそれは僕の頭の中だけのことでしかなかったのだ。僕は現に、僕の周囲にまざまざと沢山の敵を感じている。

 僕はまた一方で考える。人間ははたして人間を絶対に敵としてはならないものかどうかと。神でさえ悪魔という敵をもっているではないか。「汝の敵を愛せよ」と教えた聖者でさえ、すでにその中に敵という言葉を用いているではないか。「その行ないを憎んでその人を憎まず」といっても、人なくして行ないがない限り、行ないをにくむことは、やがてその人を敵とすることになるのでないか。
 愛と調和と、そしてそれに出発した創造のみが人生にとって有用であることが真理であるとしても、いや、それが真理であればあるほど、その真理にさからうものを敵として戦うことが必要になって来るのではないか。

 では、僕が現在、周囲に無数の敵を感じつつあるということは、いったいどうなのだ。それはいいことなのか、わるいことなのか。僕はそれをいいことだとは絶対にいいきれない。なぜなら、僕の内部には、それと同時に僕の幼いころのあらゆる悪魔が再び芽を出しはじめ、そのために僕の生命はうずまき、濁り、いっさいの誇りと喜びを見失ってしまいそうだからだ。
 かといって、僕はそれをあながちわるいことだともいいきれない。なぜなら、不正と戦わないでは、愛と調和と創造との世界は生まれてこないし、そしてそうした世界なしには、生命の誇りも喜びもあり得ないからだ。僕はこのことについてもっと深く考えてみなければならない。


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 この本の上巻は、私の中学校の課題図書でした。中巻を読むのは初めてですが、未成年の次郎に比べて、いい歳をした自分の幼稚さに気づかされます。また、私が中学生の頃(次郎と同じ歳の頃)に読んでもチンプンカンプンだったでしょうから、読まなくて良かったとも思います。

 近年のビジネス書、自己啓発書では、「三悪追放」が人気のようです。これは、仏教の考えに基づくもので、(1)妬む、(2)怒る、(3)愚痴るの「三悪」を控えれば物事は自ずと良い方向に向くというものであり、この思想自体はその通りだと思います。しかしながら、これを実践しようと思えばすぐに壁にぶつかることは当然であり、しかもその壁の部分に「三悪追放」思想の深遠さを読み取ってしまうことは短絡的だと思います。

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