犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「いじめ問題・この本を届けたい」より (1)

2012-09-01 23:53:53 | 読書感想文

朝日新聞 8月27日夕刊 
「いじめ問題・この本を届けたい 池田晶子著『14歳の君へ』」より

 大津市のいじめ事件のあと、この問題に悩む人たちに必要な本を届けたいと、出版社と取次大手が連携して既刊本を増刷したり新刊のように全国配本したりしている。2006年刊の「14歳の君へ どう考えどう生きるか」(池田晶子著、毎日新聞社)は6千部を増刷し累計15万9千部に。毎日新聞出版局の営業担当者が大津の事件後に再読し、「人生や幸福について根本から考える手がかりになる」と取次大手トーハンに再販本を持ちかけた。呼応する書店からの注文も順調で2千部以上になったという。


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 いじめ自殺の問題は、「いじめ」と「自殺」の2つの要素を含んでおり、後者は「死」を語っています。ゆえに、人間の行為としては悪や負の側に分類されるいじめによって、別の人間に死をもたらしてしまったという衝撃は、因果関係の有無といった小理屈を超えた衝撃を生じるはずのものです。そして、「命とは何か」「死とは何か」という瞬間的な問いは、死を無駄にしてはならないという動機を生み、そこでは死者が死を選んだ直前の限界的な苦悩が議論の中心に置かれるものと思います。

 ところが、死者は不在であり、生きている者の日々の人生が積み重なると、死者は遠くなります。こうして、いじめ自殺の問題は、徐々に現世的な対処法の議論に移るのがいつもの流れだと思います。いじめている者にはそれを止めさせる方法を、いじめられている者には自分を守る方法を、現場の教師にはいじめを防いで生徒を救う方法を、それぞれ有識者が知恵を絞って訴えかけるということです。ここでは、先に正しい答えが出ており、あとに残されるのは方法論と技術論のみです。

 現世的な対処論が死者を不在とする事態に直面し、人が根本から考える手がかりを求めることは、自然な流れであると思います。哲学者の池田晶子氏がこの本で指摘している論理は単純です。人は誰しも自分の意志で生まれてきたわけではなく、「気がついたらこの地球上に生きていた」という形でしか存在できないということです。自分の命は自分が作ったものではなく、自分が生まれたことは自分の意志ではどうしようもできません。この不思議さの感覚を捉えないまま、「命の重さ」「命の尊さ」と語ったところで、言葉が滑るだけだということです。

 哲学的に見れば、「いじめ」と「自殺」の2つの要素を比したとき、前者が後者をもたらすという連関は言語道断だと思います。現世的な対処法の議論に収束するいじめ問題が、その日常生活を成立させている基本であるところの生死の問題を凌駕してしまえば、死者は政治的に利用されるのみです。人の生死という存在論は普遍性を帯びる以上、現世的な対処論の枠には収まりません。やはり、「死にたくない」という意志が「生きたくない」に反転してしまった極限的な苦悩を前にして慄然とするところが、思考の始まりだと思います。

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