犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

制度的な暴力

2007-03-13 18:29:49 | 実存・心理・宗教
哲学者は、人間がこの世に生まれて生きて死ぬことそのものの生き様から目を離さない。ニーチェの実存主義からすれば、個人的な報復が禁止される代わりとして、裁判に被害者の意志が反映されることが何よりも基本とされなければならない。これが人間の生への意志である。

もしも加害者の更生や社会復帰を主眼とするならば、それは被害者の人生を加害者の更生のために供したことに他ならない。目的刑というシステムを実存主義から捉えるならば、被害者の人生を加害者の人生のための手段として扱うという構造が浮かび上がってくる。

実存主義は、1人1人の「その人間」という視点を失わないが、人権論は「人間というもの」という視点に立つ。このような人権論のカテゴリーは、客観性を押し進めざるを得ず、その結果として必然的に全体主義的となる。そこでは、人権を尊重する社会という制度が、1人1人の人間に対して暴力として降りかかってくることがある。

キリスト教の道徳において、右の頬を殴られて自ら左の頬を差し出すような人は偽善的であるが、単なる自己欺瞞の範囲に収まっている。しかしながら、社会全体のレベルで自力救済を禁じ、さらに国家刑罰権と被害者の意志を切り離すというシステムは、被害者に対する社会の暴力として降りかかってくる。すなわち、体制的な自己欺瞞の強制である。

自然災害による被害では、被災者には怒りのやり場がないが、それが人間存在において自然な状況である。これに対して、犯罪行為については、被害者には加害者という怒りのやり場があり、それに怒りを向けるのが人間存在において自然な状況である。これを意図的変更し、怒りのやり場をなくす制度を作っているのが、キリスト教のルサンチマンの影響を受けた近代刑法のシステムである。それは不自然であり、従って非人間的である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。