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p.43~ (津島佑子さんに対する手紙)
自分自身の内面だとか、ある特定の事実を書く、ということは、本来できないものなのだろう、と私はあなたのエッセイを読みながら改めて思いました。見たこと、聞いたことの生活のひとつひとつの小さな断片を、ことばに変えて、書き寄せてゆきながら、書き手は書き手自身の内側を確かめてゆく。その作業のみちのりを、筆者自身と共に辿るような思いで読むよろこび。このことが、多分、この手紙の初めに書きましたように、津島佑子さんという「私」に、溶けこんでいけたひとつの理由なのでしょう。
p.100~
歌の常道を踏むべく、死者への鎮魂を装った、如何にも挽歌らしい挽歌を作った一時期もあった。それは自分にとって正直でない愚かなやり方だった。死者の為に、涙くさい歌を作ったとしてそれが自分にとって何の力になろうか。もはやどのように問い、打とうとも、応え返すことのない、打ち返すことのない、絶対的な沈黙の中に入ってしまった存在に向かって、何かを聴く為の耳を持つなど、欺瞞と醜悪の他のものではない。
なま暖かく湿った情緒でもって、死者を欺いたり忘れたりすることは、その場限りの自慰でしかない。残された者は、おのれという生者の本音を常に吐かせ、それに突き動かされ、揺りあげられて、生き、駆けるしかない。本音を吐かない歌は弱い。恥ずかしい。
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言葉の本来的な性質が最も強く発揮される場は、「書きながら考える」、そして「書きながら考えが広がる」という点にあると感じます。従って、決まりごとや定義に従って文書を書くということは、無理をして人間が言葉を操っている状態だと思います。但し、社会を動かしている99パーセント以上の文書は、企画書・稟議書・報告書などの実用的な文書であり、言葉のある種の機能のみが用いられている状態だと思います。
法律の仕事に就いていると、「考えられている文章」を前にすると目が文字の上を滑ってしまうのが悩みです。他方で、考える必要のない文章がスラスラ書けてしまうのも悩みです。例えば、「被告人は今後は二度とこのような犯罪を行わないことは当然として、いかなる反社会的行為も行わないよう自らを戒めることを心より誓っており、また、責任ある社会人としての立場をわきまえ、人生を立て直すことを決意しており、よって、再犯の恐れは皆無である」などといった文章です。