犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二著 『光市母子殺害事件』 その1

2012-11-09 23:34:14 | 読書感想文

p.136~
(対談の部分です)

宮崎:
 本村さん、F(元少年)はね、一方で非常に不幸な生い立ちを背負ってますよね。この裁判の過程でその事情を知ったときにどう受け止められました?

本村:
 不幸な生い立ちがあるというのは事実だと思うし、否定するつもりはないです。ただそれによって罪を正当化することは違うと思いました。
 彼はまず、彼自身で責任をとらなければいけない。原因はやっぱりいろいろあったと思うんです。確かにお母さんが自殺されたり、家庭内でのお父さんの暴力も確かにあったと聞いています。そこは同情されるべきかもしれない。でもそういう原因があるからと言って、それに責任転嫁して犯罪を正当化することは許されない。

藤井:
 そうした不幸な生い立ちが裁判で重視されるのが、加害者が少年のケースの特徴です。少年事件の「罰」が大人のそれに比べて軽いのは、その分を社会がかぶるという考え方があるからです。ただその場合は再犯をしないように社会が手当てをすべきなのですが、実際はなされていない。


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 元少年が中学生の時に母親を自殺で喪っていたという事実を初めて聞かされたとき、私は一瞬グラッときました。多くの人も同じだろうと想像します。善悪二元論の構造が思わぬ方向から崩され、振り上げた拳のエネルギーがスーッと弱まる感じだと思います。幼い頃に母親を自殺で亡くした子供一般への偏見の問題にも心が向けば、良心の呵責から逃れるわけにも行かないだろうと感じます。

 このようなグラつきを収める方法としては、「同じ境遇に置かれていても大多数の人間は事件を起こさずに一生懸命生きている」「同じ環境で育った人間は全員事件を起こさないとおかしい」といった反証が行われるのが一般的だろうと思います。そうは言っても、元少年については現にそうだったと言われれば反論が難しく、言いようのない気持ち悪さが残ります。どこかポイントがずれており、誰かに上手く誘導されている感じです。

 弁護団は当然、この辺りを強調しており、元少年の精神的な未熟さの原因を母親の自殺に求めていました。しかしながら、本村氏の妻の弥生さんの殺害については「母親のイメージを重ねて甘えたいとの気持ちから抱きついた」と主張し、娘の夕夏ちゃんの殺害について「母親の体内に回帰したいという心情が高まって赤ちゃんを抱いた」と主張するに至っては、技巧的な策略のあざとさの前に、グラッとした繊細な部分が全部飛んでしまう感じがします。

 元少年の母親が自殺しているとなぜ一瞬グラッと来るのか、自分の内心を振り返ってみると、人格として向き合う対象が元少年から亡くなった母親に代わっていたことに気がつきます。ここは、被害者側の場合とは対照的です。被害者側において、殺された被害者本人はあくまでも不在であり、「被害者遺族」という肩書きを付された本村洋氏がすべての人格を引き受けているように思います。これは強烈な思考の枠組みであり、弥生さんや夕夏ちゃんは現に生きていた人格としてではなく、死者の無念を有しつつ天国に送られているように感じます。

 これに対し、元少年の母親は、この文脈において天国に送られていません。息子のことをコテンパンに叩き過ぎてちょっと母親に対して気まずいという感覚は、生きている者に対するときと同じだと思います。母親に対する「人殺しを産んで育てず自分はさっさと死んだ」という非難もなく、元少年に対する「このような事件を起こして天国のお母さんが悲しむ」という文脈も想定されていないと感じます。これは、被害者遺族という肩書きが付けば保護や支援の対象となり、加害者という肩書きが付けば反省や更生の対象となるという固定観念によるものだと思います。

 「母親が自殺した事実が遠因となって無関係の人を殺した」という理屈が成り立つのであれば、「妻と娘を惨殺された事実が遠因となって無関係の人を殺した」という理屈はより成り立ちやすいはずだと思います。しかし、実際のところは、「妻と娘を惨殺されてもその犯人の死刑を願ってはいけない」というレベルにまで非対称性は極まっています。「私がこの手で犯人を殺します」と述べた本村氏の言葉に力があったのは、殺人の既成事実に安住している元少年の前に、生と死の対照関係の本筋が示されていたからだと思います。

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