犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

阪神・淡路大震災 19年

2014-01-17 23:11:18 | 時間・生死・人生

 「震災を語り伝える」ということが、震災に際しての具体的な出来事を詳細に語り継ぐということであれば、これには自ずと限界があると思います。例えば、日本人が関東大震災(大正12年)をそのような意味で語り継ぐことに成功しているとは思えず、私にとっては生まれる前の歴史上の出来事に過ぎません。これは、古今東西の無数の災害の歴史において同じような事情だと思います。ここは諸行無常ということを感じます。

 関東大震災の当時に比べれば、阪神・淡路大震災や東日本大震災の画像やニュース映像は無数に記録されており、それらが風化を食い止める力にはなっていると思います。それにもかかわらず、人が体験を語り伝えなければならないのは、映像には心の中が絶対に写らないからです。ここだけは客観性の入り込む余地がなく、主観から主観に対して、直に言葉によって伝えられなければならない種類のものだと思います。

 天災を支配できない人間が「震災を語り伝える」という行為を続けなければならないのは、防災の教訓という点も勿論ですが、「自分が明日生きていることは確実でない」という当たり前の真実が存在するからです。大震災の直後、被災地以外の多くの者がテレビの映像を見て受けた最大の衝撃は、確かにこの真実であったことと思います。そして、時間の経過とともに忘れてしまったのも、この真実であったと思います。

 目を疑うような震災のニュースの映像は、繰り返し見ているうちに、人間の感覚を麻痺させます。これに対し、震災を語り伝える言葉は時間がその時で止められており、常に驚きを保ち続けているものと思います。人間の行為において、風化なる現象の受け入れが辛うじて受け入れられるのは、震災で亡くなった方がもし生きていたとしても寿命が来て、人生を生き切ったと推測されるような、遠い将来の時点なのだろうと感じます。

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阪神・淡路大震災 18年
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