犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

米原万里著 『米原万里の「愛の法則」』

2007-09-23 18:28:00 | 読書感想文
外国語に関する議論、特に日本人の英語学習に関する論争はいつも華やかである。しかし、「ある一点」を捉えているか否かで、その議論の面白さと深さは全く変わる。ロシア語同時通訳としての地位を確立しながら、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家として広く人気を博していた米原万里氏は、やはりその一点を捉えている。小学校で英語を必修にすべきかに関する真面目で厳密な論争は面白くも何ともないが、米原氏の人を食ったようなエッセイは適当で面白い。晩年は凄まじい闘病生活だったようだが、この人もこれ以外の人生が送れなかった人物であり、やはり天才の形容が相応しい。

日本人が「国際化」というとき、それは我々の習慣を国際社会の慣習に合わせなくてはいけないという意味で使われている。すなわち、国際習慣・世界標準に合わせることが「国際化」であるとされている(p.64)。そこで、英語を公用語にしようという意見が出てくるが、これは単に軍事力や経済力に優れた国の言葉を知っていれば得であるという程度の話に過ぎず(p.92)、単におめでたいだけの議論である(p.84)。これは「国際化」と言いつつ、実はオランダだけを通じて世界の最新のものを取り入れようとしていた鎖国時代とあまり変わらない(p.86)。国際的なビジネスなどに興味のない人には、英語の必修など余計なお世話である。

言葉はモノそのものではない(p.124)。政治経済の面のみから論じられる英語公用語論の空虚さは、この一点を捉え損なっていることに基づく。言葉を手渡すという営みは、その解釈を相手方に全面的に委ねざるを得ない。これをウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んだが、その意味では、日本語内でのコミュニケーションも日本語・英語間のコミュニケーションも大して変わらない。通訳者の力量の差は、目の前の文章の中の文脈だけではなく、外の世界の歴史的文脈も含めて考慮しているかにおいて表れる(p.154)。通訳を経ても、できる限り同じイメージが維持されているか、これを極限まで目指すのが一流の通訳者である(p.143)。

単語が表れる瞬間というのは、必ず何かモヤモヤした言いたいことがある。言葉が出てくるためには、まずそのモヤモヤが必要である(p.182)。異なった言語の間の一語一句の対応など不可能であり、それができるという信仰が捨てられない限り、通訳業は務まらない(p.184)。その意味で、上手い同時通訳とは、大量の必要のない単語を訳さずに捨てることである。例えば、「言うまでもなく」は、言うまでもないなら言わなくてもいいわけで、省いても何も変わらない。「はっきり申し上げて」は、そのようにはっきり言っているわけだから、やはり省いていい(p.149)。「当然のことながら」、「私が申し上げたいのは」といった単語も、米原氏にかかれば容赦なく省かれる(p.150)。こうしてみると、人間は自分の主義主張を正当化するために、いかに効果のない無駄な単語を連発しているかがわかる。

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