犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その1

2013-06-17 22:19:40 | 国家・政治・刑罰

 自動車運転過失致死罪の刑事裁判の私選弁護人に就く者は、どのような思想の持ち主なのか。私の学生時代の疑問は、実際にこの業界に入ってみると、すぐに解けた。弁護士会の持ち回りの法律相談は、予約の電話の順番で事務的に割り振られるだけである。電話が数分早いか遅いかだけで、受ける相談の内容は正反対になる。

 「なぜ弁護士は犯罪者の味方をするのか」という批判と、「弁護士は犯罪者の唯一の味方なのだ」という反論との対立は、実務の真ん中で走り回っている時には、ほとんど意味がない。隣の部屋ではどのような相談が行われているのかという問題は、私がこの部屋にいる限り、全く無意味である。これが、現場で私が最初に痛感させられたことだ。

 私が自動車運転過失致死罪の刑事弁護の案件を担当するのは、もう何件目になるだろうか。その数が正確に把握できないことよりも、件数をデータとして捉え、過去の判例のように集積させていることに気が付く。私は、こんな感覚で仕事をしているはずではなかった。しかし、内省するだけの時間も気持ちの余裕もない。ただ、軽々しく「命を守る」と言わないよう努めているだけである。

 パソコンの検索で、以前の裁判の時に作ったワードのファイルを調べていく。過去の文書の流用は、無関係の人の名前が残ってしまうミスが起きやすく、個人情報保護の点からは非常に好ましくない。しかし、過去に自分が書いた文書を目の当たりにすると、その時の私の内心の混乱がありありと蘇ってくる。私は、どうしてもこの過程を辿らないと、新たな文書が書き始められない。

(フィクションです。続きます。)

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