犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井隆著 『如己堂随筆』

2010-08-20 23:21:39 | 読書感想文
(昭和26年の出版です。)

p.114~

 「あの原子爆弾が私たちに加えた損害のうちで、いちばん大きかったものは何でしたろうか?」と田川が私にたずねた。彼は爆弾の裂けるまでは、私の隣に住んでいた小学校の教員で、あの爆弾で愛する妻と4人の子供を天にささげ、財産をすっかり燃やしてしまった。そして手もとに残ったのは、たった1人の男の子であった。私も同じく妻を天にささげ、家も財産も失なったが、手もとには1人の男の子と1人の女の子が生き残っている。

 「原子爆弾1発で、わたしの家庭はつぶされました。私の財産はなくなりました。私の古里、長崎は廃墟となりました。私の祖国日本は無条件降伏をしてしまいました。ああ、なんという大きな損害でしたろう!
 けれども損害はそれだけだったでしょうか? こういう損害については、原子爆弾をわが身に親しく経験したことのない人々にも想像がつきます。それだから世界中の人々が原子爆弾を使うな……と大騒ぎをしているのです。たしかにその叫びは正しい。大騒ぎして原子力管理問題について議論するだけのことはあります。実際ひどいですからなあ、原子爆弾は! けれども私は感じています。世界の人々が感じておらない大きな損害がまだ他にあることを……」

 長崎の原子野はこの通り着々と復興してゆく。だがしかし、どうしても回復できない傷が残っている。それを田川は言うのであった。「そうですね。私にも近ごろそれが何であるか、気がついてきました」。私は低い声で言った。「それは心に受けた傷ではないでしょうか?」


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 戦争体験を語ることが、心に受けた傷の傷口を無理にこじ開けることだとすれば、最初から傷口が存在しない後世の人々に対して戦争を伝えることは、本来の意味では不可能だと思います。私はこれまで、何回か戦争体験のある方々のお話を直接伺ったことがありますが、正直なところ「押し付けられた」という印象が強く、「伝わってきた」という感じはありませんでした。

 戦争が後世に伝わるということは、戦争体験のない戦後生まれの世代に対する口伝を飛び越え、文字にして記されたものが、さらなる後世の人々に伝わるという作用を指すのだと思います。自然現象としての風化と、比喩としての風化が、目の前の形としては逆の動きを示すことが避けられないならば、後世への伝わり方は、数ではなく質の問題となるようにも感じます。

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