犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

道徳と反道徳

2007-03-04 14:39:03 | 実存・心理・宗教
道徳は、人間が社会において生きていく上で必然的に存在するルールである。しかし、ルールというものは、それ自身を継続的に安定させるために、次第に権威を求めるようになる。人間が内的な倫理ではなく外的な道徳に頼り、それを自らの行動の基準として取り入れようとするとき、道徳の自然性が反転し、人間を超えた絶対的なものとして崇められるようになる。

このような道徳の危険性の指摘については、ニーチェ哲学も、啓蒙思想による人権論も同様である。しかし、その後の展開は正反対である。哲学は、何よりも物事を根本的に考える。すべての常識を懐疑し、考え抜く。他者と論争するのではなく、自問自答を繰り返す。このような営みの中からニーチェが到達した地点が、人間の生への意志であった。超越的なものを信じず、今ここで自分が一度きりの人生を生きているという実存的不安との直面から逃げないということである。ニーチェは何よりも、「正義」を警戒しろと述べる。「正しいことを主張する人間」を警戒するようにと述べている。

人権論による解決法は、ニーチェ哲学とは全く逆である。道徳というルールの行き過ぎを、人権論という更なるルールで抑制しようとする。法律は道徳の最小限であり、過度に道徳的になってはならないとする。そして、もし法律が道徳的になってしまった場合には、人権論によって抑えるというシステムを構築する。人権論は、人間を取り締まる道徳や法律といったルールについて、そのルールそのものを取り締まるメタルール(ルールのためのルール)である。

道徳や法律においては、人を殺してはならない、他人の物を盗んではいけないとされる。しかし、人権論においては、殺人犯や窃盗犯にも黙秘権があり、裁判を受ける権利があり、証拠がなければ無罪とされる。人権論というルールにおいては、そもそもの最初の犯罪は全く問題とされない。加害者を道徳的に非難しないのが人権論の思想である。

このように、人権論とは国家権力を名宛人とするルールであり、国民を名宛人とする刑法のルールに対しては、メタルールの地位に置かれる。そして、国民を名宛人とする刑法は道徳的なルールであるから、その道徳の行き過ぎを抑制しようとする人権論は、反道徳的であることに存在意義が求められる。すなわち、人権は反道徳的でなければならない。人権論は犯罪者の味方をしているのではないか、悪人を守っているようだという常識的な違和感は、人権論の反道徳的性質からすれば、必然的である。そして、人間の自然な感情に反する反道徳のルールを正当化するためには、人権という命題を絶対的な正義として君臨させるしかなくなる。

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