犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人権派は「被害者の人権論」を恐れる

2007-03-05 19:06:33 | 実存・心理・宗教
法律学においても、法と道徳の関係は大論点であるが、「法と道徳の峻別」という格言と「法は道徳の最小限」という矛盾した格言があることからもわかるように、抽象的な総論レベルに止まっている。しかし、各論的に「犯罪被害者の人権」と「被告人の人権」を道徳という視点から見てみると、両者は正反対の性質を有することがわかる。犯罪被害者の人権は道徳的であることに意義があるが、被告人の人権はあくまで反道徳的であることに意義がある。

被害者の人権としては、事件の情報を得る権利、裁判に参加する権利、プライバシーが守られる権利などが挙げられているが、その内容はいずれも我々の道徳に合致している。これらの権利が守られなければならないという常識は、通常人であれば簡単に納得できるものである。

これに対して、被告人の人権は、あえて国民の道徳を覆している点に意味がある。一般的な道徳からすれば、法廷では包み隠さずに真実を述べ、心から反省し、証拠を提出することが望まれるのは当然のことであろう。しかし、被告人の人権という考え方は、このような道徳に逆らうことを積極的に認める。被告人には反省する義務はなく、否認したり黙秘することができ、証拠を進んで提出する義務もない。これが被告人の人権の根本思想である。この制度の下では、素直に罪を認めて証拠を提出した者が有罪となり、否認を続けて証拠を隠滅した者が無罪となるが、これも当然の帰結である。反道徳的であればあるほど、被告人の人権という思想の意義が発揮される。いわゆる人民裁判や心情刑法に流れることを防止するのが、被告人の人権という思想の目的だからである。

このような両者の正反対の性格からすれば、いわゆる人権派の立場から犯罪被害者の人権という概念に積極的な評価が与えられないことにも納得が行く。被告人が否認したり黙秘したりすることを正当化する根拠は「人権」しかなく、それは反道徳的であるからこそ意義がある。もしこの「人権」という概念に道徳的なニュアンスが付加されてしまえば、被告人の行動を正当化するための基盤が危うくなるからである。人権派は、被害者の人権論を恐れる。

人権派の立場からは、被告人の人権と犯罪被害者の人権は矛盾するものではないと言われることが多いが、これは欺瞞的な表現である。究極的に両者が衝突する場面では、反道徳的であることに意義を求める人権思想からすれば、犯罪被害者の人権を犠牲にしても被告人の人権を優先するのが当然だからである。近年は人権派による被害者保護の動きも見られるが、それはあくまでも部分的な譲歩であり、最後の結論において被告人の人権を優先するという結論は不動である。

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