犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

自分の人生、自分の犯罪

2007-03-14 18:53:39 | 実存・心理・宗教
被害者が加害者に対して訴え、裁判所に対して訴えていることは、非常に単純なことである。小難しい専門用語の前に、ただ1人の人間として行動してほしいということである。自分の人生、自分の犯罪である。罪を犯したならば犯したのであり、罪を犯していないならば犯していない。それだけの話である。これは、罪を犯した本人が一番よくわかっていることである。

無罪の推定とは、「本当に被告人が罪を犯したかどうかわからない」という視点である。これはあくまでも、裁判官から見た視点である。被告人本人が、「本当に被告人が罪を犯したかどうかわからない」という視点を借りて裁判を争う態度は、端的に自己矛盾である。誰が誰の人生を生きているのか、自分でもわかっていない。実存主義の枠組から見れば、単に鈍感で自己欺瞞的な態度である。「本当に自分は罪を犯したかどうかわからない」と言って争うとは、自分でも誰の人生を生きているのかわからなくなっている状態である。

自分の人生、自分の犯罪においては、他の人間は全く関係がない。他人の冤罪の苦しみは、自分自身の人生、自分自身の犯罪には何の関係もない。すべては、自分の一度きりの人生の中の出来事である。人間は他人の人生は生きられない。自分の罪と向き合わず、自分の人生と向き合わないで済ませようとしても、やはり自分は自分の人生を生きているしかない。ここには罪を犯した存在である自分がいて、それと向き合おうとしない自分がいるだけの話である。

人権論の超越論的なところは、人間の一人一人の人生から離れるという点である。社会全体から国家権力を仮構し、大上段の視点から人間を捉える点である。そこでは、人間が自分自身と向き合って反省するという実存的な深さは求められず、国家権力から人権を侵害される被告人という大きな文脈で捉えられる。自分の犯罪行為は人権侵害ではなく、自分が受ける刑罰のみが人権侵害であると主張することが許される。このような近代刑法の視点そのものが、被害者をずっと苦しめてきた。この苦しみの本質は、一度人権論のフィルターを外してみなければ見抜くことができない。

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