犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

桑子敏雄著 『環境の哲学』より

2013-04-20 22:11:57 | 読書感想文

p.243~

 モノから空間へと目を移すことで、どんなことが知れるのだろうか。日本の文化の伝統のなかには、「私」を捨てること、我欲を捨て去ることに対する強いあこがれがあった。虚空の思想は、人間の欲望を外から眺める視点を提供したのである。人間は自分の視点からしかものを見ることができないというひともいる。しかし、それにもかかわらず、利己的な欲求から離れてものを考えようとする努力も可能である。

 空間の豊かさはけっして自分だけにとっての豊かさではない。他の人々、他の生物たち、あるいは山や川や谷や岩、そうしたものにとっても豊かな空間というものを人間は考えることができる。空間がどんな豊かな内容をもっているかということと、その空間がどのように呼ばれているかということとは切り離しては考えられない。だから地名と空間は深く結びついている。豊かな経験は豊かな空間と地名によって結ばれている。


p.260~

 「野鳥の森」と名付けられた空間は、元来公園が造成される前は自然林だったところであるが、公園の設計者は、これを「野鳥の森」として機能化し、金網で囲いをつくり、ここを訪れるひとびとに小屋の窓から鳥たちを観察させるように仕組んでいる。しかし、この森はもともと鳥以外の生物も生息していたのであるし、「植物の森」としてもよかったのである。

 この森を「野鳥の森」として機能化することは、ひとつの価値づけであるが、この価値づけによって、「昆虫の森」である可能性や「野草の森」である可能性は排除されてしまった。このように情報空間では、ものごとは機能化され、その機能的価値の一面だけが伝達されることによって、伝達機能が強化される。そのために、空間の多様な可能性は一面化され、平板化される。価値機能の付与によって、じつは空間が貧しくなってしまうという逆説が生じる。


***************************************************

 ネーミングという行為は、無数の人間の人生を間接的に左右するものだと思います。言語の特質として、言葉は物事を抽象化し、虚構性を持ち、実体のないものを実体化するからです。そして、特に日本語において片仮名で「ネーミング」「ネーミングライツ」などと述べられるときには、言語を道具として使用している状態に自覚的であり、かつその道具に使われている状態に無自覚であることが避けられないと思います。

 虚構を商品とする危険性への哲学的洞察を欠いた言語の使用は、バーチャルな世界を実体的に展開させ、かつ実際に目に見えているはずのものを容赦なく無視するものと思います。すべての道具は人間の体の延長であり、今や電子頭脳は人間の頭に取って代わっていますが、あくまでも外部化された道具は身体の代替物です。ネーミングによって言葉を操るということは、実は非常に恐ろしいことなのだと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。