犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

茂木健一郎・田中洋著 『欲望解剖』

2010-06-30 23:49:16 | 読書感想文
p.129~

 フランスの哲学者であるドゥルーズ/ガタリは「欲望はなにものも欠如してはいない」という意味のことを言っていますね。「欲望する機械」という概念です。人間以前に欲望の原型のようなものがあり、人間の器官と連結することによって初めて欲望として機能するのだ、ということでしょう。

 こうした立場に立てば、いろいろな形で繁茂して来た欲望がたまたま肉体に宿ったのが人間で、むしろ欲望を抑制するところに「人間」が現れる。それは今まで出されてきた欲望論とはちょっと違っています。これまでの欲望論は「人間はおなかが空いたから、食物を欲望するのだ」という「欠如」としての欲望論でしたから。ドゥルーズたちの欲望論がどういう意味を持っているのかと考えていたんです。何かを欲する、というのが我々の想定する欲望なんですが、むしろ欲望を抑制するという逆転した欲望を対置できるんじゃないかと思うんです。


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 茂木氏は、死を目前にした人間の欲望は計り知れないと述べています。これは、「自身が死にたくない」という場合と、「死者にもう一度だけ会いたい」という場合に分けられています。そして、人は死という不可能や断絶に向き合ったとき、人間は宗教や健康ビジネスにお金を使うのだと分析しています。
 これは、恐ろしいほど正しいことを指摘しており、「自身が死にたくない」のは欲望そのものだと感じます。これに対し、「死者にもう一度だけ会いたい」という心情に欲望の語を当てるのには違和感があります。
 
 「楽して金儲けして遊んで暮らしたい」という種類の欲望から人間が解放されるには、その欲望を抑制するという逆転した欲望を対置するしかないでしょう。しかし、これではビジネスとして成立しないため、経済社会では成立しません。
 他方で、「もう一度だけでも死者に会いたい」という願いには、不可能や断絶があるため、やはり経済社会では成立しません。もし、「死者の霊と交信すること」にお金を支払ってしまえば、それはビジネスの網の目の中に取り込まれ、欲望の名に相応しい心情となるのだと思います。

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