犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

善悪二元論に依存する善悪二元論

2007-03-06 18:53:38 | 実存・心理・宗教
啓蒙思想とは、人間が等しく理性を共有しているという前提のもと、人間を非理性的な拘束から解放するという思想である。そこから、心情刑法や人民裁判を排して、客観的な罪刑法定主義を確立したのが近代刑法の思想である。そこでは法と道徳の峻別が大原則とされ、「道徳的には悪くても刑法で罰せられていない以上は罪にならない」という結論を論理的に受け入れられる人間こそ、近代合理主義の理性的な人間であるとされる。

このような啓蒙というスタンスは、一般人の常識と専門家の常識の乖離を招きやすい。近代刑法の思想を体現している専門家からは、国民が凶悪犯人を槍玉に挙げて非難し、マスコミもこぞって道徳的にバッシングする状況は、単純な善悪二元論だとして消極的に捉えられる。そして、国民が感情的になることは冤罪の温床であり、裁判所はそのような世論に流されてはならないと主張される。少数のエリートの冷静な意見が、無知な大衆の感情を見下ろすという構図である。

しかしながら、ここで被告人の人権を保護せよという人権論に流れるならば、善悪二元論に善悪二元論で対抗しているだけの話である。悪である加害者を善の地位に移すために、さらなる悪である国家権力を持ち出して、被告人を善にしているという構造である。最初に「泥棒をしてはならない」という道徳の存在を前提としつつ、あえて「反道徳的な窃盗罪の被告人にも手厚く人権を保障するのが正義というものである」という逆説を述べるのが人権論の趣旨である。そこでは、最初の道徳の存在というものを大前提にせざるを得ない。

人権論は、社会における道徳の行き過ぎを防止することを目的とするメタルールであり、その作用は反道徳的でなければならない。従って、あくまでも二次的なルールであり、派生的なルールである。しかしながら、それは反道徳的であるというそのことによって、国民の素朴な道徳感情によっては支持されず、人間のルールとしての実感を離れてゆく。かかる状況において、この二次的ルールを正当化するためには、それ自体を絶対的な真理として存在させなければならなくなる。その表れが、日本国憲法の31条から40条の詳細な規定である。そこでは、被害者の存在が完全に脱落させられている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。