犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小川洋子著 『物語の役割』

2012-01-13 00:03:39 | 読書感想文

p.34~

 私がここで思い出すのは、1985年、日航ジャンボ機の墜落事故で、9歳の息子さんを亡くされたお母さんの姿です。私は遺族の方々が編まれた文集を読んだのですが、この9歳の坊やは生まれて初めての一人旅で、大阪のおじさんの家へ行く途中でした。
 なぜあの飛行機に乗せたのか。9年の人生で一番怖い思いをしただろう時に、どうしてそばにいてやれなかったのか。お母さんの文章は、終始自分を責める言葉で埋まっていました。直接そう書かれてはいませんが、自分が子供を殺してしまった、という思いが伝わってきました。

 恐らく同じ立場に立たされた母親なら、全員そう思うでしょう。一生自分を責め続け、自分を許さないでしょう。しかし、現実をありのままに見るなら、責任を取るべき人たちは他にいます。尾翼の不良を見逃した日航か、機体を製造したボーイング社か、同じ機体が以前しりもち事故を起こした時、調査した運輸省か……、とにかく責められるべき人がいるはずです。そして母親には何の落ち度もありません。
 けれど、そうした責任追及がきちんとなされ、原因がはっきり解明されたとしても、母親の罪悪感は消えないはずです。自分が子供を殺した、というフィクションの中に、苦しみの源を持ってくる。そういう苦しみ方をしなければ受け止めることのできない悲しみが、この世にはあるのでしょう。


p.75~

 小説を書いているときに、ときどき自分は人類、人間たちのいちばん後方を歩いているなという感触を持つことがあります。人間が山登りをしているとすると、そのリーダーとなって先頭に立っている人がいて、作家という役割の人間は最後尾を歩いている。先を歩いている人たちが、人知れず落としていったもの、こぼれ落ちたもの、そんなものを拾い集めて、落とした本人さえ、そんなものを自分が持っていたと気づいていないような落とし物を拾い集めて、でもそれが確かにこの世に存在したんだという印を残すために小説の形にしている。そういう気がします。


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 示談交渉を進める法律家(加害者側・被害者側双方)にとって最も対応に困るのが、法的責任がないことが明らかである被害者側の人物が、自分自身を責めて苦しんでいる状況です。要件事実論によって世界をデジタルに切り取る法律家と、アナログでしかあり得ない人生をそのまま生きている被害者との埋めようのない溝が顕在化するところです。

 法律論としては、人間は責任を負いたがらない動物であることが大前提にあります。だからこそ、裁判では客観的証拠によって責任の所在が立証されるのであり、この前提からスタートしなければ裁判が始まりません。従って、最初から責任を負わないことが明らかである被害者側の者が責任を感じるのは、法的には無意味なこととして捨て置かれます。ここに執着する法律家に対しては、情に流されすぎであるとの非難が向けられるのが通常です。

 もっとも、加害者側の代理人としては、加害者への赦しを得ることが最終目的であり、何としても被害者を懐柔しなければなりません。従って、被害者側が「自分自身を許せない」といって苦しんでいるのは、あまりに高級すぎる苦しみであり、無意味なものとして解消する必要に迫られます。その上で、「加害者が許せない」という被害感情に論点を絞り、ここを徹底的にお金で解決しようとします。ここにおいて、初めて精神的苦痛を金銭で算定する法律論の枠組みに入ります。

 小川氏の述べるとおり、法的責任がない被害者が自身の悲しみを受け止める方法として、法的責任の次元を超えた苦しみに一生苛まれるしか方法がないのであれば、周りの人間が採るべき選択肢は1つだけだと思いです。一生自分を責め続け、自分を許そうとしない者に対し、それを慰めたり止めようとしないことです。これを強行することは、救いたいという善意に反して、救いと正反対の結果をもたらすはずだからです。

 ところが、法律家は被害者が自分自身を責めて苦しむのを止めようとします。それは、加害者側の代理人においては、被害者を救いたいという善意からではなく、「責任から逃れたい」との望みを持つ加害者の立場を守るためです。法的に責任のない者が自責の念に苛まれているのに対し、法的に責任のある者が自責の念から逃れようとする矛盾は、倫理の前に法律の立場を危うくします。そこで、この話は客観的証拠による事実の正確な認定の話に変形される一方、被害者の自責の念は加害者への厳罰感情に変形されることになります。

 他方、被害者側の代理人においても、被害者が自分自身を責めていることを前面に出すことは困難だと思います。「被害者が責めているのは加害者ではない」「被害者は実際に高い賠償金を望んでいない」との揚げ足を取られる危険性があるからです。「被害者の精神的苦痛の増大は加害者側に原因があるのではなく、被害者の内向的素因によるものである」との反論を相手方に許してしまっては、法律のプロとして失格であるとの烙印を押されかねません。

 「自分が殺してしまった」というフィクションの中に苦しみの源を持ってこなければ受け止めることのできない悲しみがこの世にあるとすれば、法治国家における多くの法律実務家が被害者遺族にしてきたことは、その受け止めの邪魔をすることであったのだと思います。法律家が落としたものは数多く、小説家が拾い集めるのも大変だと思います。

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