犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

角田光代著 『八日目の蝉』より

2011-06-04 00:42:28 | 読書感想文
p.346~

 論告求刑が行われた第12回公判の席で、被告人である希和子は、「具体的に謝罪したいことがあるか」と裁判官に言われて、こう述べている。
 「自分の愚かな振る舞いを深く後悔するとともに、4年間、子育てという喜びを味わわせてもらったことを、秋山さんに感謝したい気持ちです」

 感謝ではなく、謝罪の気持ちはないのかとさらに訊かれ、希和子はようやく「本当に申し訳ないことをして、お詫びの言葉もありません」とちいさな声で言った。
 2年に及ぶ裁判のなかで、これは希和子が口にした、最初で最後の謝罪の言葉だった。翌朝の新聞は「野々宮被告場違いな感謝 反省の色なし」「子育て喜びだった 逃亡劇の終焉」などと報じている。
 裁判官は、争点となった放火の有無については「過失によりストーブが倒れたという可能性も捨てきれない」として、希和子に懲役8年の判決を下した。


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 人のある行為が法律に触れるか否かとは別の問題として、結果的に刑法によって犯罪とされている行為が行われた周辺では、人間の運命が翻弄され、その思考や精神の限界が言語の限界として現れるように思います。ゆえに、この限界が恒常化する場面は、小説家と呼ばれる人々が命を賭けてでも書きたい場面なのだと思います。

 他方、この法治国家における犯罪の場面は、実体法である刑法と手続法である刑事訴訟法によって秩序づけられます。そして、法律の言語を日常的に操る者は、刑法の自由保障機能と構成要件の一義的明確性の原則において、小説の言語を無意識のうちに1ランク下に置かざるを得ないものと思います。取調べにおいても、客観的な物証が重要視され、人の言葉であるところの自供には信用が置かれていません。さらには、その言葉や人間の内心も、取調べの可視化によって客観性の支配下に置けるはずだという希望があります。

 小説家の書く言葉は、筆一本でその物質ではないものに観念上の奥行きや深さを持たせることもできれば、その逆にも陥ることもでき、全くの白紙の地点から紡がれる言葉は、全てを法律の条文からスタートせざるを得ない言葉とは異質の世界で語られているのだと思います。この言葉を語る者の矜持は、法律の言語が小説の言語を1ランク下に置くのとは異なり、法律の言語を下に置くものではなく、そもそも上下という概念での争いは生じないとの印象を持ちます。

 小説のテーマが犯罪である以上、角田氏は登場人物の心理描写や葛藤を主旋律としつつ、随所に無機質な裁判の専門用語を挿入しています。上記の部分は特に辛辣だと思います。法律の理論は、小説の文章表現について「表現の自由vsプライバシー」「表現の自由vs名誉権」といった論理関係で包摂していますが、この包摂関係が嗤われているとの感を受けます。また、裁判官は被告人が一言でも謝罪の言葉を述べてくれなければ判決文が書きにくくなる点や、自白事件の弁護人はとにかく反省と謝罪の言葉を繰り返させるのが仕事である点が暗示され、そこから言葉の重さと軽さとが語らずに示されているように思います。

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