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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (6)

2013-03-22 23:24:51 | 読書感想文

p.171~

 人は言葉を聞くとき、何を言っているかだけでなく、言葉それ自体の動き、律動を感じている。どんなにたどたどしい発言にも真理を感じ、流暢な言葉であっても嘘を見る。人は皆、死者の言葉が、どんな律動をもっているかを知っている。私たちをふと訪れ、無声の声として顕われる静謐なる流れがそれだ。それは見えず、聞こえない。しかし、胸に衝動をもって迫りくる。

 私が存在するのは、私の努力によってではない。むしろ、私を私たらしめているのは、他者である。他者が、私たちの生をまったき者へと変貌させる。他者は、生者とは限らない。田辺元は、死者の哲学を論じながら、真実の語り手が自分一人ではないことをはっきり感じている。彼には病床の妻から耳にした言葉や、そこで見たもの、そして彼が我知らず口にした過去の言葉が、まざまざとよみがえってきただろう。


p.214~

 「健康な」人間が、病者にむかって「元気になって」と言う。発言者は、励ましのつもりだろうが、病者にはそうは聞こえない。元気になることが、関係を結び直す条件だと聞こえる。その言葉は、現実世界に戻ってくるには、「元気」になるほかないと、ほとんど暴力的に伝えているに過ぎない。それは、震災の被災者にむかって、感謝しているなら、その気持を金品で表せというのと同じく冷酷な言葉である。

 そうなると言葉がない、と言い返されるかもしれない。だが、見舞いに行って、どうして病者を励まさなくてはならないのだろう。どうして被災者を鼓舞するところから始めなくてはならないのだろう。ただ黙して、そばにいる、それだけで十分なのではないのか。話さなくてはならないと思い込んでいるのは見舞う者で、病者ではない。励まさなくてはならないと思いこんでいるのは、自分を「支援者」だと誤認している者だけだ。


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(以下は、(5)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 先輩が述べていることと私が考えていることは、言葉にすれば全く同じである。すなわち、「お金よりも何よりも命が大切である」。「経済を優先して人命を軽視するなど、本末転倒の話である」。そして私は、このような論理に対して異議の述べようがないはずである。しかし、どこかが違うと思う。何よりも命が大切であることを知り抜いた者は、「命を守れ!」とシュプレヒコールを上げるものではない。そのような行動をすれば、精神が破壊されるはずだからである。

 「あの3月11日の出来事によって価値観が変わった」と言う人は多い。私もその1人である。それだけに、その変わり方の違いは、絶望的な懸隔を生むことを思い知らされる。私は、人生とは何と理不尽で不条理なものかと思った。この世には、シュプレヒコールを上げられるような正義などない。ところが別の人にとっては、3月11日の出来事は、その人の人生の明確な目標をくっきりと確立させるものであった。その先には高揚と興奮がある。

 がれきが危険な汚らわしいものであるならば、その物体と共に暮らす被災地の人々は、既に取り返しのつかない被害を蒙っていることになる。いかに「子どもを守れ」と叫んだところで、被災地に暮らしている子供は、既に守られていない。よって、ここで守られるべき子供とは、全ての子供のことではなく、被災地以外に住む子供のことである。そして、地震と津波による被害を受けた人々は、敬意を表されるどころか人間扱いされていない。私は、このような議論の前提に立つ「命」に、ひどく利己的なものを感じ続けている。

 生と死は弁証法的な関係にある。生は死の単なる否定ではなく、死は生の単なる否定ではない。ところが、「汚染がれきが全国にばら撒かれると命が危ない」と声高に叫ばれるとき、そこで言われている「命」は、単に死の否定である。すなわち、生を含むところの死の弁証法を経た「命」ではない。そのような「命」を知る者は、内省的であり、大声を出さず、かつ内部に激しいエネルギーを抱えているはずである。私は、突然急用を思い出し、その会議室を去った。

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (5)

2013-03-21 21:06:01 | 読書感想文

p.41~

 震災の場合のみならず、愛する者を失い、苦しむ者は後を絶たない。また、確実に悲しみは続く。近親者を失った人に対して日蓮は、早く悲しみを乗り越えろなどとは言わなかった、「一緒に悲しんで、もっと悲しめ、もっと悲しめといっている」と、上原専禄は書いている。

 この言葉は、彼が妻を失ってまもなくのものだが、後年の彼なら、悲しむのは生者ばかりではない、死者もまた悲しむと書いただろう。なぜなら、共に悲しむことほど、苦しみを分かち合う営為はないからである。死者は、墓中にはいない。


p.136~

 死後の世界には国境もなく、それぞれの文化もなくなる。そこでは、現世を感じさせるものは消えてしまっている。自分がかつて日本人であったことも遠のいていく。それはあたかも世界市民のようである。しかしそうした思想に、日本人は奇異を感じて来たのではないか、と柳田國男は疑問を投げかける。

 「一蓮托生」の言葉に見ることができるように、望むなら、夫婦は現世だけでなく、来世でもつながる。冥界の棲家である「蓮の台」も夫婦で分け合うとする霊性に、柳田はむしろ深く動かされる。こうした宗教経験は、彼が古い民俗の記憶をもとめて、山、海、そして人々、あるいはその記録に出会うたびにさまざまな形でよみがえってきたに違いない。


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(以下は、(4)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 「震災による心の傷が癒える期間」と「がれきが撤去できる期間」を比べてみれば、前者のほうが途方もなく、目に見えず、繊細な問題であることは自明だと思う。がれきは、理屈の上ではいつかは完全に撤去できるが、心の傷は理屈の上でも一生癒せない。がれきの広域処理に関しては、受け入れ拒否が復興の妨げになっていると言われ、「絆」は嘘だったのかとの批判を耳にする。私は、受け入れ反対論の主張とは全く別の理由で、「絆」は最初から嘘だったと思う。

 世の中の喧しい議論は、全て「結論ありきの論法」で構成されている。ここで、「結論ありきの論法ではないか」と突っ込んだところで、堂々巡りで虚しいだけだと思う。他人に結論を強制しないならば、人は内省的に自問自答しているはずである。がれきの放射線量の測定結果は、紛うことなき客観的数値であり、人間の主観で変わるものではない。ところが、その数値が高ければ高いということによって、低ければ低いということによって、いかなる結論の論拠にもなり得る。

 「汚染がれきを『絆』の美名の下に全国にばら撒くことの愚」に対する義憤が収まらない先輩は、がれきの焼却を被災地で行えば地域の雇用が確保され、復興にも役立つのだと言う。試算によると、焼却場を東北に30基建設すれば、がれきは約8年で消えるらしい。そして、その間、被災地の雇用は確保される。「がれきは安全だと言うならば、全国にばら撒いていいという同じ理由で、被災地の人達の健康も害することはない」と先輩は語る。理詰めである。私は釈然としない。

 私の思考は、全く別の場所に飛ぶ。8年間、毎日毎日がれきの焼却ばかりしていれば、人間は間違いなく気が狂う。被災地以外の人でも、どこか精神状態が限界に達するはずである。ましてや、その日の午前中までがれきが「生まれ育った街」であった人については言うまでもない。人体への被曝が懸念される状況においては、「人間の心はベクレルやシーベルトの単位で測れない」などという私の思考は感傷的に過ぎるのだろうか。私は黙って先輩の話を聞いている。

(続きます。)

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (4)

2013-03-20 00:18:48 | 読書感想文

p.71~

 現代は、死を論じる言語と人間であふれている。死への不安、死への恐怖を語ったところで、死を語ったとする論者があまりに多い。無への道程である死、万物を消滅させる死、どのような形容詞を重ねても、死は、生者にとっては「謎」であり続ける。

 死は、生者には知られ得ない。もし、それを知り得るとするなら、それを経験した死者を通じてのみである。しかし、数多いる死を論じる者のうち、死者を通じて死に触れようとする試みは、どれほどあっただろう。

 震災は甚大な被害をもたらした。そこで死者となった人々もまた、「被災者」である。膨大な震災論のうち、死者を実在として論じたものがいくつあっただろう。死者は亡き者と同義であり、それを語る者は、現実逃避をしているのだとみなす風潮はないだろうか。

 死者を身近に感じ、手を合わせて祈る。祈るばかりでは何も始まらない、という者があるかもしれない。しかし、祈りのないところに、いったい何を始めようとしているのだろうか。祈りとは、生者の願望を表明することではない。沈黙し、存在の声を聞くことである。


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(以下は、(3)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 人は物事が見えるようにしか見えず、見たいようにしか見えない。世の中で生きる立場が異なれば、その懸隔は絶望的であると思う。親は、我が子の命に責任を持つがゆえに、デモでは心底から「子どもたちの命を守れ」との叫びを上げる。しかしながら、我が子とは、あくまでも子育てをしている自分の子供のことである。人は、「赤の他人の我が子」の命には責任を持たず、ゆえに「子供達の命」という主張は、どこか僭越さを伴わざるを得ないと思う。

 被災地とは、命よりも大事な我が子を喪い、親であったという自分の人生を失い、なおその人生を生きている人が住んでいる場所である。そして、その立場にない私には何も語る資格がない。ただ、その同じ震災から生じた問題について、「子どもたちの命を守りたい」と思うならば、その命を喪った人の目や耳には届かないようにその言葉を語るのが最低限の礼儀だと思う。そして、私が考える礼儀など、活動を全国的に盛り上げたいという熱気の前には全くの無力である。

 人は物事が見えるようにしか見えず、見たいようにしか見えない。「がれきの受け入れは『絆』という美名を利用したゼネコンの利権だ」と熱弁を振るう先輩と、「がれき以外に何かいい呼び方はないのか」と考える私とでは、見えているものが全く違う。先輩にとって、がれきは怖く汚らわしいものである。彼は、目に見えない放射線を見ようとしているが、これは目に見えない。ゆえに、がれきは放射能のそのものであり、ベクレルの数値の高低以外に存在意義はない。

 私は、目に見えない放射線はあくまでも見えず、細胞レベルでも何も感じない人間である。逆に、一昨年の3月11日の午前中までは紛れもない家の柱であり、家具であり、子供が背負っていたランドセルであり、人生の軌跡が詰まったアルバムであったその物を、すべてベクレルの数値のみで切り捨てることに心が痛む人間である。失われた生活や命に思いを寄せる者と、放射能の化身たるがれきによって生活や命が侵されることを恐れる者とでは、やはり見えている世界が違う。

(続きます。)

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (3)

2013-03-19 22:47:13 | 読書感想文

p.21~

 死を口にするとき、私たちは死を経験したことがあるように錯覚するが、実は他者の死を知るのみであることを忘れがちだ。死を経験したのは、死者のみである。だから、死者がいないなら、死を経験した者は存在しないことになる。私たち生者は、自らの経験として死を語ることができない。だが、死者の経験はどうだろう。

 人は皆、いつか死ななくてはならない、この事実は、終わりなき悲しみの源泉となっているように見える。これを書いている今、東日本大震災から、すでに5カ月が経過している。今日も各界から問題提起や論議が活発に続いているが、被災者の苦しみの奥深くに横たわる、ある視座が見過ごされている。死者をめぐる問題、死者論である。

 死者をめぐる論議など無意味だ、現在苦しんでいる人々に、具体的にどう手を差し伸べるかが問題である、とする意見があることは理解できる。しかし、鎮魂の祈りを捧げる人間の傍らで、その言葉を発することができるだろうか。そうした言葉を口にするのがためらわれるのは、社会儀礼以上の何かによってではないだろうか。

 死者を見出そうと願うなら、「死」に目を奪われてはならない。それは病に近づきすぎて、病者を見失うのに似ている。病気は存在しない。いるのは病に苦しむ人間だけである。労苦があるのではなく、それを背負う人間がいるだけであるように、死ではなく、死者が存在しているのではないだろうか。先に触れたように、何が「死」であるかを、私たちは知らないのである。


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(以下は、(2)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 私は、「復興」という言葉にすら違和感を覚え続けている。これほどの失われた命を前にして、いずれ死ぬべき1人の人間の直観として、言葉が軽すぎると感じるからである。そのような私が、「命を守れ」「子どもたちの未来」と連呼されれば、当然耳を塞ぎたくなる。人として全く心が痛まないのかと思う。熱く語られれば語られるほど白けてしまう。人災である原発の問題は、天災による死とは論点が違うだけに、死者の存在が無視される度合いは激しい。

 人間の数だけ価値観があり、人と人はいかに議論しても解り合えることがない。そして、政治的な意見の根本的な違いは、世界観や人生観の違いに帰着するしかない。しかし、今回私が感じたのは、「脳」による本能的な思考の違いではなく、より人間の全身を覆っている「肌」の感覚の違いであった。放射能を感じるのは、肌によってである。細胞レベルでの違いである。敏感な人は敏感であり、鈍感な人は鈍感であり、これは如何ともし難い。

 放射能に対する肌の敏感さの違いと、イデオロギーの左右の違いは、全く関連性がない話である。私の隣に座った保守的な先輩は、写真の中の「命を守れ」「子どもを守ろう」という文字を見ながら、理路整然と愛国心を語る。いわく、放射能に汚染されたがれきを日本中にばら撒いて焼却し、大気に放射能を撒き散らすなど、正気の沙汰とは思えない。政府はいったい何を考えているのか。この国を滅ぼそうというのか……。

 議論の虚しさを知らされ続けた私は、ここでも余計なことは言わず、頷くのみである。その分、心の中の整理できない思いは激しい。がれきと呼ばれているその物は、あの3月11日の午後のその瞬間まで、「生まれ育った家」「会社」「学校」「商店街」であり、要するに「生まれ育った街」であり、「全生活」「全財産」であり、すなわち「全て」であった。このことは、その瞬間までの人間を「遺体」と呼び習わすことと並行しているように私には思われた。

(続きます。)

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (2)

2013-03-18 23:09:18 | 読書感想文

p.6~

 愛する者を喪った人間に、懐古の情は生まれない。死者は懐かしむべき過去の対象ではないからである。真に死者を思うとき、経験するのは、時間であるよりも「時」ではないだろうか。時間は流れるが、「時」は過ぎゆかない。死者はいつも、生者を「永遠の今」へと導く。

 死を経験した人はいない。しかし、文学、哲学、あるいは宗教が死を語る。一方、死者を知る者は無数にいるだろう。人は、語らずとも内心で死者と言葉を交わした経験を持つ。だが、死者を語る者は少なく、宗教者ですら事情は大きくは変わらない。死者を感じる人がいても、それを受け止める者がいなければ、人はいつの間にか、自分の経験を疑い始める。


p.31~

 死者に触れることなく、震災の問題の解決を求めることは、問題の大きな一側面を見失うことになる。もっとも深刻な被害を経験しなくてはならなかった一人一人が、数に置き換えられて記録され、記憶からは消されてゆく。死者を記憶するのは個々の遺族の役割であって、公で議論すべき問題ではない、との意見があるかもしれない。しかし、本当にそれでよいのだろうか。そうした社会常識をなぞっただけの態度が、死者を世界から消してきたのではなかったか。

 内心にまざまざと起こる死者の経験を、社会常識という無記名の通念によって打ち消さなくてはならないところに、人々の耐えがたい苦しみがあるのではないか。死者の話をする。それを聞く者は、憐れみをもったまなざしで、話す人を見る。しかし、死者を語る人々が欲しているのは、自らへの憐憫ではない。自己の内側にある個的な死者の体験が、他者によって共有され、現実の出来事となることである。


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(以下は、(1)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 私の受けた印象では、大震災の被災者に対してより冷たい視線を向けていたのは、思想的に右寄りの人々であった。「残酷な言い方かも知れないが、被災地をある程度切り捨てないと日本はダメになる」「被災者には嫌がられても、国のために無理にでも立ち直らせなければならない」といった本音もあちこちで聞かされた。抽象的な国という実体があり、その足を引っ張る人間が国に対立させられれば、結論は自明であった。

 もともと、犯罪被害者の救済を除けば、弱者救済の思想は左側に親和性があると思う。貧困、病気、障害などに加え、天災についても同様である。根が右寄りである私は、その善意の中にある売名行為の要素に対して気持ち悪さを感じてもいた。普段は経済優先を批判しておきながら、震災直後の自粛ムードに対しては「経済が沈滞する」として批判していた点については、ご都合主義も甚だしいと憤っていた。

 東日本大震災は、福島原発の事故によって、普通の天災ではなくなった。そして、この部分は、私が「犯罪被害者の救済を除けば」弱者救済の思想は左側に親和性があると感じたその部分に一致していた。私の隣に座った先輩は、官邸前の脱原発デモに参加したときの写真を見せてくれた。「命を守れ」「子どもたちの未来」「いのちが大事」「子どもを守ろう」というプラカードがひしめいている。自己主張の強い、原色のプラカードである。

 もし、原発事故が震災に伴うものではなく、2万人近い死者・行方不明者もなく、津波によって多数の子供達の未来が失われていなければ、この脱原発デモは世論から比較にならないほど支持されていただろうと思う。そして、プラカードの文字に心を痛める私としては、この状況においては、このデモは支持されて欲しくはない。これは理屈ではなく、感覚である。その意味では、私は脱原発の賛否について、何ら自分の意見を持っていない。

(続きます。)

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (1)

2013-03-17 22:52:30 | 読書感想文

p.21~

 死者への論究なくして、東日本大震災の問題は終わるどころか、始まらない。親族、隣人、家財を失い、厳しい生活を強いられている人々だけでなく、死者たちもまた、被災者である。

 遺体が発見される、されないにかかわらず、死者を「生ける死者」として対峙させることが、今、求められている。被災した生者たちの苦しみは、自身の将来への不安ばかりでなく、今も共にあると感じている死者が、見捨てられていることにあるように思われる。

 死と死者は異なる。「死」は肉体の終わりを意味するが、「死者」は、すでに亡き存在ではない。「隣人」を置き去りにし、自分たちだけが身の安全を求めることに困難を感じるのは、むしろ当然である。被災した人々が、かつての土地を離れるには、死者たちの同伴が実感されなくてはならない。

 死を論じることに忙しかった近代は、死者論を封じてきたように思える。死は実存的な経験の極北であり、その彼方に死者を論じることは、科学性を欠いた観念の遊びに過ぎないのだろうか。


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(以下の私の文章は、上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 先日、地元で行われる脱原発デモの準備への協力を頼まれた。人が社会内で働いて生活していくには、必然的に様々なしがらみとの折り合いを強いられる。その場の空気を読み、組織内の人間関係に気を遣い、表面上は角が立たないように適当にやり過ごさなければならない。特に私は、世の中に対して冷めている分、自分の意に沿わないことであっても本心を殺し、人の和を重んじて追従することが多い。

 デモの拠点となっている法律事務所の会議室に入る。いつもは裁判所で戦っている敵方の事務所であるが、実際には依頼者の知らないところで強くつながっている。私がこの会議室に来るのは3回目だ。例によって、「生かそう憲法」「守ろう9条」などのポスターに出迎えられる。しかし、今日ここに集まるメンバーは、思想的に左寄りというわけではない。そもそも私が誘われたのも、右寄りだと思っていた先輩からである。

 隣に座った先輩から機関銃のように話し掛けられる。この業界にありがちな、「冷静に興奮している状態」である。彼いわく、次に震度6以上の地震で原発事故が起きたら、日本国のみならず、北半球が壊滅する危険性が否定できない。次の大地震はすぐに来る。そうなれば本当に国が潰れる。日本が終わってしまう。経済優先で国力を論じるなど、本物の国賊ではないか。国家の危機に直面して、楽観的な見通しを語る者こそ、正真正銘の非国民ではないか……。

 2年前の原発事故の後、私は、この問題はイデオロギー的な保守と革新の問題には収まらないことを理解し、頭が混乱することはなくなってきた。先輩は紛れもなく強い愛国心を有している。脱原発の思想はもともと左寄りであるが、経済優先の観点から脱原発の非現実性を批判し、そこに国益という観点を持ち込んできたのは、右側からのレッテル貼りだと思う。そう考えなくては、また私の頭が混乱する。

(続きます。)

池田晶子著 『知ることより考えること』より

2013-03-15 22:56:44 | 読書感想文

p.141~ 『何を信仰しているの』より

 先日亡くなった前ローマ法王、ヨハネ・パウロ2世を「聖人」として認定するか否かの審査会議が、バチカンで行なわれているという記事を読んだ。新ローマ法王の選出選挙、コンクラーベの政治性も凄かったが、これもちょっと凄い話である。要するに、何でもヒエラルキーにしてしまうのである。「神の前の平等」のはずの宗教界でも、このヒエラルキーは、「死んだ後まで」ついて回るのである。

 宗教の本質とは、現世的価値に対して永遠的価値を提示するところにあるのではなかろうか。癒しや復活など現世的価値としての奇跡的出来事は、宗教の本質とは本来無関係のはずである。ゆえに、宗教が奇跡それ自体を価値とするなら、すでに話は転倒している。宗教など、早い話が、永遠のふりをしたしょせんは現世利益じゃないかと言われても、仕方ないのである。

 科学により説明不可能なことのみを奇跡とするような宗教は、科学の優位に立っているつもりで、じつは科学に従属しているのである。神の奇跡なんぞ、本当に感じているわけではないのである。そういう人々が、現世利益、現世的ヒエラルキーの追求にかまけることになるのは、当然ではなかろうか。


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 上記は、元ローマ法王のヨハネ・パウロ2世に関する8年前の『週刊新潮』の連載記事です(平成17年9月8日号)。池田氏の文章は必然的に断定口調であるため、好き嫌いが分かれ、連載がなされていた頃には「態度が傲慢だ」「高みから人を見下ろしている」といった批判もよく耳にしました。それぞれの時事ネタの熱が冷め、筆者が亡くなり、その後は論理の確実さだけが残っているように思います。

 人間が「神」について最も深く考える場面とは、「神がいるならば何故このような悲しいことが起きるのか」という疑問に直面するときだと思います。人間が本当に自ら激しくものを考える状況は、動機も理由もなく生じるものではないからです。そして、ここでの本当の問いは、神がいるか否かということではなく、「神がいるか否か」という借りてきた問いを拒否しているという点だと思います。

 「神がいるならばこのような悲しいことは起きない」と語れば、神を信仰する立場からの多種多様の反論が来るのが通例ですが、その反論の理屈はどれも苦しいと感じます。「人間の罪に対する裁きである」「この出来事を起こしたのは神ではない」「全てのことに意味がある」「目に見える現実だけで判断してはならない」「神は乗り越えられる試練しか与えない」等々ですが、どれも単に他人の思想を借りて来ただけのように思います。

 新ローマ法王の最大の課題はスキャンダルで揺らぐ教会の信頼回復であり、特に神父による児童への性的虐待や、不透明な運営が問題視される財政管理組織「宗教事業協会」への対応が問題であると報じられています。私には難しいことは良くわかりませんが、信頼回復への困難な課題が、「神がいるならば何故このような悲しいことが起きるのか」という問いよりも厳しく激しいとは思えません。

池田晶子著 『勝っても負けても41歳からの哲学』より

2013-03-14 23:18:13 | 読書感想文

p.127~ 『何を信仰しているの』より

 新しいローマ法王が選出された。前のヨハネ・パウロ2世が亡くなって、新法王が選出されるまでのあれこれをテレビで観ていて、私もあれこれ考えた、今さらながら、宗教とは、我々にとって何なのだろう。

 もしも本当に信仰する、ある種の絶対者をそれとして認めるということであるなら、法王も教会も一切無用のはずである。信仰は、たったひとりでも可能なはずである。なぜなら、絶対とは、ある意味で、自分が存在しているというこのこと以外の何ものでもないからである。絶対的なその原点から眺めるなら、法王なんて存在は、全くのナンセンスである。

 そうではなくて、法王とは、現世における特定の集団、特定の勢力を代表し、その利害得失を差配する人なのだというなら、話は明快である。げんに、法王選出のためのコンクラーベとは、完全な政治である。テレビなどで観る限り、彼らは、宗教が政治となっていることを、微塵も自覚していない。どころか、宗教とは、すなわち政治なのである。そこにはちょっと凄いものがある。

 ウソがウソなりに通用するのは、ウソに騙されたがっている人がいるからである。人は、ウソに騙されるのが好きなのである。いや正確には、真実によく耐えられないのである。存在することには意味も理由もなく、天国も地獄も存在しないなんて真実には、我々は耐えられない。だから人はウソを欲する。


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 上記は、8年前にベネディクト16世がローマ法王に選出された時の『週刊新潮』の連載です(平成17年6月2日号)。池田氏の週刊新潮の連載は、その当時の時事ネタでありながらも時代の流れに乗っておらず、しかも時代に逆らうわけでもなく、常識では説明がつかないものばかりです。そして、今となっては、「今」がいつなのか煙に巻かれているようで、古くなればなるほど新しくなるような妙な感じがします。

 2年前、東日本大震災を体験した7歳の日本人少女からの「なぜこんなに悲しい思いをしないといけないのか」という質問に対し、ベネディクト16世が答えていたことを思い出します。法王は、「私も自問しており、答えはないかもしれない。キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる。私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」などと答えていたようです。

 今さらながらの私の感想としては、何だかなぁと思います。ローマ法王ともあろう者が自問して答えがないのであれば、「私も自問しており、答えはないかもしれない」で止めておくしかないと思いますが、それではローマ法王ともあろう者が格好がつかないのであれば、余計なことでも言っておかないと収まりがつかないのだろうと思います。

笹原留以子著 『おもかげ復元師の震災絵日記』より (2)

2013-03-10 23:11:26 | 読書感想文

今西乃子著 『心のおくりびと』 p.106~より

 復元ボランティアを始めたころ、笹原留以子のところに自称納棺師と名のる女性からボランティアを手伝いたいとの申し入れがあり、それを受け入れたことがあった。ところが遺体復元を始めると、「遺体の復元はアートである」と遺族の前で豪語する大失態が起こった。こんな女に用はない。一刻も早く出て行ってもなわないと遺族に申し訳が立たない。

 留以子はていねいに女性に断わりを入れると、その後はこうした申し出にはいっさい応じないことに徹した。しかし、その後も、復元師として弟子入りしたい、復元の手伝いをしたいという問い合わせはあとを絶たない。マスコミはマスコミで、「衝撃の一瞬を撮らせてください」などと遺族が傷つくようなことを平気で言う。

 遺体の復元にかけまわることもさることながら、さまざまな対応に追われ続けて、そのころには留以子の精神状態も限界に来ていた。毎日が非日常の中に立たされ、あまりにも多くの苦しみ、悲しみに出会ったため、留以子の心の中の受け皿がいっぱいになってしまったのだ。留以子はスケッチブックに今回の災害で復元した人々の顔を思い出すままに次々に描いた。


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 この本は、読む人を選ぶ本だと思います。また、「とても読み進められない」という時には二種類の場合があり、「すらすら読める」という時には一種類の理由しかないと感じます。この本を読んで流れた涙は、悲し涙でなく、もちろん感動の涙でなく、もとより命名する意味もないと思います。

 この本の最初には、「全ての『いのち』に捧げる」という言葉から始まっていますが、ここに「死」を「命」と称するレトリックを感じてしまえば、あとは字面が感傷的に流れるに過ぎなくなるものと思います。正当に「命」「いのち」を語ることができる者は、人間の存在が誕生と死によって時間的に規定され、生と死を合わせて初めて人生の形が捉えられることを知る者のみだと思います。

 人間の言葉には限界があり、語り得ぬものには沈黙しなければなりませんが、そのギリギリのところまで語ってしまっている者は、同時にこの人間社会においてとてつもない大仕事を成し遂げているのだと感じます。語らずに示すということは、自分では既存の言語を用いて限界まで行動し、自分の人生に嘘をつかないことにより、他人にはその限界の所在が示されるのだと思います。

 私は、要領や効率が求められる経済社会の論理に浸かり、名誉を求め、地位や権威に価値を置いて暮らしています。仕事の中では、笑いながら「葬儀ビジネスは今後の成長産業である」といった話をしており、特に違和感も覚えなくなっています。私は今のところ、幸いにもこの本がとても読み進められない人間の二種類のうちの一方に属していますが、この本から選ばれないような人生を送ってはならないと心底感じます。

笹原留以子著 『おもかげ復元師の震災絵日記』より (1)

2013-03-09 22:41:32 | 読書感想文

太田宣承氏(碧祥寺副住職・特別養護老人ホーム光寿苑副苑長)のあとがきより

 被災地で最初に行なったのが、海に向かってのお参りだった。亡き人たちへの悲痛な思いと、自然界の猛威に対する畏敬の念、「なぜ」という問いが入り混じった複雑な心境だった。しかしながら、海はとっても穏やかで、青くきれいで、あの豹変した荒れ狂った顔が嘘のようで、皮肉なものだという思いを抱きながら眺めるしかなかった。

 悲痛の叫び、怒りのような空気を前に、心が折れそうになりながらも安置所を巡り続けた日々。ただし、私は現場でご遺族や警察の方々の心痛を感じながらの活動に過ぎなかったが、笹原さんはご遺体に直接関わり、そのたびごとに言われようのない悲しみと苦悩に苛まれていたのである。残されたご遺族の気持ちと共に生きる1つの形。それが、笹原さんにとっては復元ボランティアだったのだろう。

 身を粉にして向き合う日々は、笹原さんをしても平常心を保ち続けるのは困難を極めた。日を追うごとに心がギリギリの状態に追い込まれていった彼女。もともと、小さいながら北上市を拠点に株式会社「桜」という納棺の会社を一生懸命営んできた。何度も大きな葬儀会社からオファーがありながらも、「ご遺族の気持ちに寄り添う納棺がしたいから」という理由であえて属さず、「参加型納棺」という商標登録をしてまで進んできた。

 笹原さんのすばらしさは、その復元ボランティアという活動を評価されることを極度に嫌がる謙虚さにある。「全国の方々の支援物資や支援金、励ましのお言葉、被災されたご家族の願い、支えてくださった方々とのご縁無しには、私の復元ボランティアは為し得なかったことです。だから、本当におかげさまでここまで続けられました」。


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 数年前、納棺師を描いた映画『おくりびと』が話題になりましたが、私もかなり鮮明に内容を覚えています。その際には、マスコミによって一種のブームが作られ、それに乗せられるように「死をテーマにしているのに癒された」「気持ちが優しくなれた」といった感想も聞かれ、私は何たるおめでたい賛辞かと憤慨していました。そして、そのブームは例によってすぐに去り、納棺師という仕事への脚光も去ったことを覚えています。

 映画『おくりびと』に関しては、本当の哀しみを洞察した方においては「死を美化している」「感動などできない」との感想が強かったと聞きましたが、全くその通りだと思います。映画を離れた現実の世界では、人は死を忌み嫌い続け、ゆえに死に関する職能に対して怖れを抱き続けます。映像として与えられたものは単なる情報であり、作為による誘導が強くなることは避けられず、受ける側はそのことに気付くと苦しくなるものと思います。

 震災で亡くなった方々の中にも数年前に『おくりびと』見た方は多く、「癒された」「気持ちが優しくなれた」といった感想を持っていた方も大勢いたことと想像します。私もかなり勝手に頭の中に死の概念を仮構し、死を美化しています。利益や効率といった対立概念を想定し、それを批判することによって納棺師の仕事の尊さを解釈し、生きている人と亡くなった人を区別しているようであり、私の思考が楽なほうに流れていることに気付きます。

(続きます。)