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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (3)

2013-06-03 23:01:39 | 読書感想文

野崎昭弘編 「数学」より

p.75~

 「数学の素質」とは何か。それは「具体的なものごとの細かいところを省き、要点だけをぬきだす力」である。「抽象化して考える力」と言ってもよい。しかし抽象化は、古代人や幼児にはひじょうにむずかしいと言われる。だから、「2かける4は?」と聞かれても、その2が具体的に何を表すかが、どうしても気になってしまう。2羽の小鳥と2日とでは、たしかに全然違う。

p.80~

 数学者が数学を研究するのは「役に立つから」では必ずしもない。というより多くの数学者は、世の中の数学者は、世の中の役に立つかどうかなど考えていない。登山家が、山登りが好きだから登るように、数学者は数学が好きだから、数学を研究するのである。では数学のどこがいいのか。「わかった!」といううれしさが大きいところがいい。


宇野功芳編 「音楽」より

p.122~

 ベートーヴェンは計算が苦手だった。同じノートに36の4倍を計算しているのだが、36×4という掛け算ができず、36を4つ足して、しかも答えが244になっているのだ。正解は144だからもちろん大間違いだが、ベートーヴェンという一個の人間にとって、そんなことがどれほどの意味をもとうか。彼だけではなく、今でもヨーロッパに行くと計算が苦手な人はたくさん居るが、彼らは日本人より劣っているだろうか。断じて否である。

p.132~

 ベートーヴェンは自分の運命に打ち克とうとして作曲を続け、その作品は現在でも多くの人々に生きる力をあたえつづけている。苦しみが深い人ほど深い音楽を創造することが出来、苦しみが深い人ほどその音楽に共感、感動することが出来る。だから音楽(他の芸術も)はこの悩み多き人生にこそ必要不可欠なものであり、天国にはきっと無いと思う。


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 法律学の論理性は数学の論理性に匹敵するものですが、そうであるが故に、法学者の思考は「世の中の役に立つかどうかなど考えていない」という方向に流れる危険性があるように思います。学説の細かい論争において、A説とB説が長年にわたり激しく争われる場合、論理の美しさの問題の比重が大きくなるにつれ、「社会を良くしよう」という意志は希薄になっていくものと思います。

 実務家のほうでは、また別の意味で「世の中の役に立つかどうかなど考えていない」という事態が起こります。人々の欲望が肥大化し、人間が自己中心になった末の紛争においては、弁護士は単にクレーマーの代弁者に落ちます。ここでは、依頼者のために最善を尽くすという職務倫理に安住すればするほど、その主張が人間として正しいのか、社会を良くするものなのかという観点が欠落することになると痛感します。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (2)

2013-06-02 22:35:04 | 読書感想文

布施英利編 「美術」より

p.51~

 たとえば「モナリザ」。この絵は誰もが知っている超有名な絵だが、何で知っているのかといえば、誰もが「画集で見た」からであろう。いや立派な印刷の画集ならまだよい。たいていは、切手くらいのサイズの、わけの分からない「モナリザ」でも見て、自分は「モナリザ」を知っている、と思っているのだ。

 「モナリザ」は、パリのルーヴル美術館にあるのだが、もしパリに旅行してこの絵を見ても、そこで抱く感想は、「自分は『モナリザ』の前に立っている、これは本物なんだ」という思いだけだろう。知識が邪魔をしているのである。それは裸の目で「モナリザ」を見ているのではなく、知識で「本物のモナリザという記号」を見ているのだ。これでは美に触れている、とはいえない。


p.59~

 ルネサンス彫刻の巨匠・ミケランジェロの代表作「ピエタ」も、つまりは死を表現した作品である。ピエタという言葉は、悲しみの極み、という意味がある。ピエタの像は、ヨーロッパの1つの宗教のなかの物語だけではない。子供の死に接さざるをえない親の悲しみは、いつの時代にも、どこの国にもある。たとえば「酒鬼薔薇」の事件で命を落とした子供のご両親の悲しみも、何をもってしても癒すことのできない深いものだ。

 ぼくは犯人の少年が逮捕される前、殺人事件の現場となったタンク山や中学校の校門を取材して歩いたことがある。被害者の少年の胴体が見つかった山の中には、少年が好きだったお菓子や果物が置かれていた。ぼくはそこにミケランジェロのピエタ像のような悲しみをみたのである。全く別の物ではあるが、そこには人間の中に普遍的にある死への思いが込められていた。


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 その道の専門家による評論は、センスのない凡人には嫌味に聞こえることがあると思います。それは、評論家の主観はそれぞれ違うのであり、並列することが大前提でありながら、その間の優劣は対象となる作品ではなく、評論家の素養を示してしまうからだと思います。従って、そこに起きる競争は、端から凡人を排除します。

 ミケランジェロと現在の日本の犯罪を結びつけることは、普通は強引さが目立ってしまったり、視点の斬新さに対する自負が嫌味に聞こえるものだと感じます。そして、そのように感じないということは、「人間の中に普遍的にある死への思い」を双方の対象の中に見る際に、それを見る者がその思いを思っていることの結果だろうと思います。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (1)

2013-06-01 23:20:47 | 読書感想文

島田雅彦編 「国語・外国語」より

p.21~

 君に知ってもらいたいのは、お金も言葉もその都度、交換価値が決められるということだ。英語のように交換価値が高い言葉は強い言葉ということになる。お金の強さと言葉の強さは深い関係がある。母親から習った言葉が弱い言葉だと、狭い世界でしか通じないので、その人は強い言葉を学ばなければ、広い世界に出て行けない。

 お金や言葉が強くなると、人は傲慢になり、自己満足に陥る。あまり、強いお金と言葉の力に頼りすぎると、自分が本来持っていた能力を失ってしまうばかりか、弱いお金や言葉を見下すようになってしまう。お金と言葉は君の本質や実体を見えにくくし、幻想ばかりを募らせる。お金や言葉に騙されてはならない。


p.34~

 命がけの対話は人の心を打つものである。互いに共通するものが何もなくても、相手を説得し、相手のいうことを理解できるときがある。もちろん、教養というのはその能力のことなのだけれども、時には対話への情熱が教養を超えて、人に訴えかけることがある。言葉が話せても何をいっているのかわからない人もいるし、言葉が不自由でも、筋を通っている人もいる。


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 同じ単語を聞かされ続け、感動が薄れることによる言語感覚の麻痺は、お金の大切さが実感できなくなる金銭感覚の麻痺と似ているように感じます。これは、頭で考えて「感覚が似ている」と両者を比較して思い出すわけではなく、その麻痺している感覚の瞬間に過去の瞬間を思い出すような感じです。

 貨幣の価値は人間が造り上げた観念である以上、貨幣信仰の結果としての心の空虚さを埋めるものは、やはり深い言葉でしかあり得ないと思います。しかしながら、この深さ自体も言葉による比喩であり、観念である以上、言葉の深さはその言葉の側ではなく、人間の側にしかないと思います。

河野裕子著 『わたしはここよ』より その1

2013-05-12 22:48:13 | 読書感想文

p.43~

 相手の立場と心情を斟酌できるまでにはそれだけの人生の時間と経験が要る。若い日には自分のことだけで精一杯で、その場その場を凌ぐのに全力を賭けてしまう。そのくせ、体力も畏れを知らぬ気力もあって、相手かまわず突っ走ってしまう。もののあわれなど分かるはずもなく、惻隠の情などわかるはずもなく、残酷に相手を傷つけてしまうのだ。

 6、7年前のことになるが、周囲の若い人たちとちょっとした行き違いがあって、そうとう参ってしまったことがある。「あはれ知らぬ若さのゆゑに」一撃をくらうことばを吐かれた。ゲッソリ痩せた。顔つきまで変わってしまった。わたしも若かったと思う。まだ40代の終わりで、若いひとたちを躱す術を知らなかったから、まともに傷ついてしまったのである。何と可愛らしい傷つきかたをしたものかと今では思うが、古傷といえども疼くことはあって、これが生きていることの味なのかもしれない。


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 人間は、人生経験の積み重ねによる深まりを経なければ、心の機微や濃淡といったものを身につけることはできず、惻隠の情もわからないと思います。他方で、単に人生の時を重ねていればこれが身につくというものでもないと感じられます。この点において、客観性を至上命題とする社会科学の視点は、人生の時間の積み重ねというものに最初から価値を置いていないようにと思われます。科学的・客観的事実は、誰が見ようと変わるものではなく、その者の年齢など関係ないからです。

 これも私の狭い経験からの結論に過ぎませんが、法律は心の機微や惻隠の情とは対極的な位置にあり、法律家はこの点において精神的に幼い部分があると思います。学者のほうは専門バカで世間のことに疎く、実務家は思い通りにならないと子供のように怒る傾向があり、これらは「正義」の観念とも無縁ではないと感じます。法律や裁判は客観性を追求するものですが、自己主張を強力に押し進めることによって、客観的事実の側が引き寄せられるという状況が生じるからです。

小池龍之介著 『沈黙入門』

2013-05-08 23:07:46 | 読書感想文

p.22~
 ケチをつけたくなる、という心理を分析してみると、「これにケチをつけられる私のセンスは、すぐれてるヨ」という裏メッセージを含んでおり、ケチをつける対象よりも自分を優位に見せたい、という欲望と結びついています。つまり、ケチをつける相手についてお喋りをしているように見えて、実は自分のことを語っているのです。

p.54~
 正論を語ったからといって問題の解決になることはなく、周りの人を興ざめさせてしまうこと請け合いです。正論というのは、大多数の人間が納得し、少なくとも理屈のうえでは受け入れるものです。ということは、正論とは、それを言っている本人独自の考えではないことが明らかです。

p.61~
 「すみません」を何度も言いすぎると、本気で心から謝っていない印象を与え、「すみません」の価値を下げてしまうことになります。そもそも、「すみません」「ごめんなさい」「申し訳ありません」を連発する態度からは、「これからは改めよう」というよりはむしろ、「この場は適当にゴマカして、自分が変わらないですむようにしよう」というニュアンスが強くにじみ出てしまうものです。

p.76~
 他人の服装についてぶつぶつ悪口を言うのも、評論家や学者が他人や社会を批判するのも、仏道の立場から見ると変わりません。結局は怒りのエネルギーに駆り立てられての行為なのです。なぜ、放っておけばいいのに、他人を批判したり文句を言ったりしたくなるのでしょうか。それは、自分のダメさ加減から目をそらして、「ダメなのは他人、社会、世界のほうだ」と思い込みたいからです。

p.104~
 正しいこと、それ自体は言うまでもなく大切なことですが、「自分の」正しさを言い張ることは、たいていの場合、周りの人にとっては有害です。正しいことを己の心の中に持ち、それによって己をストイックかつ美しく調律してゆくことと、それをわざわざ言葉にして他人にぶつける不粋さの間には、天と地ほどの差があるように思われます。


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 社会問題を「人生の問題」として論じている文章に接すると、人生の問題の切り口としては尤もであり、その中の論理には深く納得するものの、現実にはそれでは済まないのではないかという疑問が沸くことがあります。逆に、人生の問題を「社会問題」として論じている文章に接すると、社会問題の切り口としては尤もであり、その中の論理には深く納得するものの、現実にはそれでは済まないのではないかという疑問が沸くことがあります。

 社会とは人の集まりの別名であり、すなわちそれぞれの「自分」の集まりであり、自分とは「他人にとっての他人」であるところに社会性の認識が生じるものと思います。あまりに垂直的にすぎる問題の立て方に対しても、水平的にすぎる問題の立て方に対しても、私はその鈍感さにイライラすることがあります。言葉で書くと、どちらも「この人は苦労していない」「この人は恵まれている」という苛立ちですが、その質は違っています。

桑子敏雄著 『環境の哲学』より

2013-04-20 22:11:57 | 読書感想文

p.243~

 モノから空間へと目を移すことで、どんなことが知れるのだろうか。日本の文化の伝統のなかには、「私」を捨てること、我欲を捨て去ることに対する強いあこがれがあった。虚空の思想は、人間の欲望を外から眺める視点を提供したのである。人間は自分の視点からしかものを見ることができないというひともいる。しかし、それにもかかわらず、利己的な欲求から離れてものを考えようとする努力も可能である。

 空間の豊かさはけっして自分だけにとっての豊かさではない。他の人々、他の生物たち、あるいは山や川や谷や岩、そうしたものにとっても豊かな空間というものを人間は考えることができる。空間がどんな豊かな内容をもっているかということと、その空間がどのように呼ばれているかということとは切り離しては考えられない。だから地名と空間は深く結びついている。豊かな経験は豊かな空間と地名によって結ばれている。


p.260~

 「野鳥の森」と名付けられた空間は、元来公園が造成される前は自然林だったところであるが、公園の設計者は、これを「野鳥の森」として機能化し、金網で囲いをつくり、ここを訪れるひとびとに小屋の窓から鳥たちを観察させるように仕組んでいる。しかし、この森はもともと鳥以外の生物も生息していたのであるし、「植物の森」としてもよかったのである。

 この森を「野鳥の森」として機能化することは、ひとつの価値づけであるが、この価値づけによって、「昆虫の森」である可能性や「野草の森」である可能性は排除されてしまった。このように情報空間では、ものごとは機能化され、その機能的価値の一面だけが伝達されることによって、伝達機能が強化される。そのために、空間の多様な可能性は一面化され、平板化される。価値機能の付与によって、じつは空間が貧しくなってしまうという逆説が生じる。


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 ネーミングという行為は、無数の人間の人生を間接的に左右するものだと思います。言語の特質として、言葉は物事を抽象化し、虚構性を持ち、実体のないものを実体化するからです。そして、特に日本語において片仮名で「ネーミング」「ネーミングライツ」などと述べられるときには、言語を道具として使用している状態に自覚的であり、かつその道具に使われている状態に無自覚であることが避けられないと思います。

 虚構を商品とする危険性への哲学的洞察を欠いた言語の使用は、バーチャルな世界を実体的に展開させ、かつ実際に目に見えているはずのものを容赦なく無視するものと思います。すべての道具は人間の体の延長であり、今や電子頭脳は人間の頭に取って代わっていますが、あくまでも外部化された道具は身体の代替物です。ネーミングによって言葉を操るということは、実は非常に恐ろしいことなのだと思います。

白川静著 『漢字百話』より その2

2013-04-17 23:58:55 | 読書感想文

p.30~
 文字もまた、天地間の万象がみずからをあらわす姿でなくてはならない。それは決してことばの表記形式というようなものではなく、存在の自己表現の形式そのものにほかならない。すなわちことばと同じ次元に立つところの、実在の概念化、客観化の方法にほかならないものといえよう。

p.33~
 すべて名づけられたものはその実体をもつ。文字はこのようにして、実在の世界と不可分の関係において対応する。ことばの形式ではなく、ことばの意味する実体そのものの表示にほかならない。ことばにことだまがあるように、文字もまたそのような呪能をもつものであった。

p.124~
 古代文字の構造が、形象の象徴性を最も有効に用い、必要最小限の意味的要素、すなわち形体素をもって明確な表現を成就していることは、容易に知ることができよう。これ以上の省略が困難と思われる限界のところで、文字が成立している。その一点一画のうちに字の形義が寄せられているのである。

p.293~
 ことばは感性的脈絡をもつサブ言語と、論理的形式をになうメタ言語とに分けられるが、日常的な生活語としてよりも、むしろ文字化された言語としての性格が著しい漢字系のことばは、よりすぐれてメタ言語的であるといえよう。漢字は記号というよりも、むしろ意味であり象徴である。それはそれ自身の意味をもち、体系をもつ。


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 白川静氏が批判する言語のプラグマティズムについては、実際に無数の言葉に連日追われ、クタクタになって仕事をしている立場としては、諦めと反発が入り混じったような妙な気分になります。忙しい仕事の渦中に置かれて初めて全身でわかったことですが、電話が鳴りっぱなしのときに何よりも腹が立つのが、画数の多い漢字です。1分1秒を争って目が回っているときに、画数の多い漢字はイライラして精神衛生を害します。

 電話連絡のメモや覚え書きは時間との競争であり、次の電話が鳴るまでに効率よく流して行かないと、精神が持たなくなる部分があります。他方で、ミミズが這ったような走り書きは、あとで自分でも読めなくなり、その字を見返しているだけで気が重くなるところがあります。結局、画数の多い漢字を避けてカタカナばかりを使い、自身の肉体と精神の健康を守ることにより、私もプラグマティズム促進の一端を担っているように思います。

白川静著 『漢字百話』より その1

2013-04-15 22:58:56 | 読書感想文

p.119~

 永生は古今を通じてかわることのない人の願いである。しかしその願いは、かつてかなえられたことがなく、また今後もかなえられることはないであろう。久遠の世界は、死によってのみはじめてえられる世界である。

 「久」は尸(屍)を後ろから支えている形である。「遠」は死喪の礼における袁から出ている。久遠とは、実に死の世界である。その字に久遠の意味を与えたのは、おそらく弁証法的思惟を好んだ戦国期の司祭者たちであろう。かれらは死をおそれることがなく、むしろ死において真実の認識に達しようとしたのである。


p.230~

 「眞(真)」とは顛れたる人であり、道傍の死者をいう。この枉死者の霊は嗔恚にみちており、これを板屋にき、これを道端に填め、その霊を鎮めなければならない。その怨霊が再びあらわれて禍することをなからしめること、それが鎮魂である。

 このいとわしくも思われる「真」という字を、こともあろうに真実在の世界の表象に用いたのは、荘子である。荘子以前の文献にこの字がみえないのは、その本来の字義が示すように、それは人間の最も異常な状態をいう語であるからであろう。それでもしこの語に、究極的な悟達をいう真人・真知というような高い形而上的意味を与えうるものがあるとすれば、それはそのような死霊の世界に何らかの意味で関与する宗教者でなくてはならない。


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 字源の解釈は、どれも確定的なものではなく、白川静氏の学説も数ある仮説の中の1つだそうです。現在進行形の事柄ですら出自が確定できないことは多く、ましてや大昔の文字の成り立ちを正確に捉えることなど、今となっては不可能です。そして、どの学説が正しいのかという論争は、研究者でない者にとってはどうでもいい問題だと思います。

 ただ、いかなる論争においても共通することは、その学説が捉えている地点の深さと浅さが与える印象だと思います。浅い議論は、その浅さの範囲内での深さを装わなければならないのに対し、深い議論にはその必要がないということです。そして、その差は、やはり「死」を避けていないかという点に尽きるのだと思います。

 上記の白川氏の説は、名前の中に「眞(真)」の漢字がある人にとっては何だかショックであるという点については、全くその通りだと思います。他方で、「人は必ず死ぬ」という命題は真である以上、白川氏の「真」の文字の解釈に対して違和感を覚えるならば、その「真」のどこが真なのだろうかとも思います。

オリビエーロ・トスカーニ著 『広告は私たちに微笑みかける死体』より

2013-04-12 23:07:45 | 読書感想文

p.28~

 広告は罠である。幸せなおバカさんたちみたいに消費する快楽をあおり過ぎて、消費者を食欲不振に追い込んでしまった。解雇や失業などにびくびくしながら、やっとの思いで月末のやり繰りを終え、汗水たらして働いている一般大衆は、毎日少しずつ、広告のような生活はできないという確信を深めていく。

 まず、がっかりする。次に、この広告は商品を売るためにつくられているはずなのに、実際には、自分たちを笑い者にしているとわかる。広告は騙されやすい消費者の欲望をかきたて、誘惑し、必要性をつくりだし、最後には持っていないことに罪責感を覚えさせる。広告は大衆をたらし込み、手慣れたテクニックで欲望に「火をつける」。選挙の票数を獲得するように我々の欲望を獲得していく。

 消費が成り行きまかせなのは、広告があまりにも長きに渡って大衆を欺いてきたことによるのだ。広告は、商品の品質について大衆を欺く。広告は、商品を高く買わせるために大衆をあおる。広告は、大衆に嘘をつく。広告は、次なる決定的な疑問をいつまでも回避しつづけることはできない。なぜ、昨今の経済危機の間にも、さらに消費しなければならないのか?


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 現在の私は、いかに広告費を抑えつつ効率的に集客をするかに頭を悩ませている立場ですので、学生や公務員であった頃に比して思考が汚れています。例えば、タウンページへの掲載は決して安くないので、費用対効果の検討は避けて通れず、綺麗事を言っている余裕はありません。犯罪被害者の法律相談を受けるという点を取っても、他の法律事務所に事件を取られないような策略を練らざるを得ず、いつの間にかビジネスをしていざるを得なくなっています。

 「1人で悩まずご相談ください」「今すぐお電話ください」というのはお決まりの広告文句ですが、私はその偽善臭が大嫌いでした。しかし、自己主張の強い法律事務所の広告と並べられたときに、他者の悩みを慮ったような広告は、競争で負けてしまうことも思い知りました。私はその時、広告の世界は「謙虚になったら負け」というルールに支配されていることを痛感しました。偽善臭に敏感でありたいという信念も、結局は事務所の経営状況に左右されているようです。

林望著 『新個人主義のすすめ』より

2013-04-09 22:03:17 | 読書感想文

p.134~ 「民主主義は個人主義に立脚する」より

 もっとも大切なことは、本当の意味での民主主義というものは、もとより個人主義に立脚するということです。そして、自分の意見を堂々と述べることは大切ですが、しかし同時に、自分と違う意見を十分に聞くという度量も要求されるのです。それが個人主義ということなのですからね。

 しかし、日本では個人主義が根付いていないために、どうしてもみんなが相互依存的になり、寄らば大樹の陰的になり、赤信号みんなで渡れば的になっていきます。それはしかし、結局だれもが責任をとらない曖昧な社会のかたちで、本当の民主主義から隔たること遥かに遠い。

 民主主義と個人主義とは、かくのごとく、じつは全然矛盾しないのであって、むしろ日本のような衆愚的ポピュリズムのほうが民主主義と鋭く矛盾しているということに、もっとみな気付かなくてはなりません。

 そしてこういう情けない状態を打開する鍵は、ともかく一人一人がちゃんと現実に目を向けて(テレビの愚にも付かない芸能番組ばかりにうつつを抜かしていないで)、だれもが自分一個としての批判意識を持ち、そうして、それをはっきりと表明できるように自己訓練しなくてはなりません。


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 「日本ではまだ民主主義が本当の意味で成熟しているとは言いがたい」といった論評は、いつの時代にも言われることであり、この視点からは日本の民主主義は永遠に成熟しないのだと思います。「日本人は自分達が政治を動かしているのだという意識を持っていない」というような論評も同じです。これに対し、国民主権というフィクションを正確に述べているのが、「その国の政治家のレベルはその国の国民のレベルを表す」という命題だと思います。

 国民からの無理難題に対しても、「無理です」と言えば選挙に通らないとなれば、候補者は当選するためには無理難題に迎合せざるを得なくなるものと思います。しかし、これは元々無理な話なので、政治家はいつも嘘つきであり、期待はずれであると言われて非難を浴びます。この点は、選挙の結果に責任を負わない国民は非常に楽な立場だと思います。「民意の反映」「国民の声を聞く」という言い回しと、政治の劣化との相関関係は、一筋縄ではいかないと思います。