※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)
(62)百田氏の誤り①:「ヒグチルート」で逃げたユダヤ人は「2万人」いない!(247-248頁)
D ナチスの迫害から逃れるため、ユダヤ人たちの一部はシベリ鉄道を使って東方に移動し、満州国から上海のアメリカ租界に至り、更にアメリカに渡ろうとした。 百田尚樹『日本国紀』は「ルート途上にある満州国の外交部が旅券を出さないため、国境近くのオトポール駅(現在のロシア、ザバイカリスク駅)で足止めされた。それを知った関東軍の樋口季一郎少将は(当時)は(※1938年3月)・・・・上海租界へ移動できるように便宜を図った。この『ヒグチルート』と呼ばれるルートを通って命を救われたユダヤ人は2万人といわれている」(百田377-378頁)と述べる。
D-2 百田氏の誤り①:「2万人」は誇張だ。(浮世248頁)《参考》「オトポール事件」をきっかけにユダヤ難民救済の「ヒグチルート」が開通し、1941年ぐらいまで有効であった。難民の列車の手配を行った東亜旅行社(現・JTB)によると当初1938年、オトポールに押し寄せた難民は100-200人、その後、1939年に551名、1940年に3574名だ。(1941年の数は不明。)
(62)-2 百田氏の誤り②:樋口少将が「便宜を図った」とは、「満州国外交部」と協議し「人道上の問題」として扱うよう合意した点だ!(248頁)
D-3 百田氏の誤り②:樋口少将が「上海租界へ移動できるように便宜を図った」とあるが、彼は「満州国外交部」と種々協議し「人道上の問題であることに意見の一致を見た」限りで「便宜を図った」。それ以上、具体的に「ユダヤ人に食料・衣服・医薬品などを支給した上で、上海租界へ移動できるように便宜を図った」のは満州国外交部で、樋口少将は関与していない。
(62)-3 百田氏の誤り③:ドイツの日本への抗議は「オトポール事件」に対してでない!(248-251頁)
D-4 「このことを知ったドイツは、日本に対して強く抗議した。」とあるが、「このこと」(「オトポールに集まったユダヤ人難民の入国・通行を認めたこと」)についてドイツが「抗議」したのでない。「オトポール事件」の約半年後のユダヤ人による「樋口謝恩大会」(ハルビン)で、樋口が「(ドイツがユダヤ人を)追放せんとするならならば、その行き先を明示しあらかじめそれを準備すべきである」と演説したことに対してだ。ドイツは樋口が「ドイツの国策を批判し誹謗した」として日本に抗議した。
D-4-2 「そもそもナチスはこの段階では《ユダヤ人を国外に追放すること》を政策として実施していたのだから、ユダヤ人がどこの国を通過し、どこの国が受け入れようと、それに関して抗議する意味はなかった。」(250頁)
(62)百田氏の誤り①:「ヒグチルート」で逃げたユダヤ人は「2万人」いない!(247-248頁)
D ナチスの迫害から逃れるため、ユダヤ人たちの一部はシベリ鉄道を使って東方に移動し、満州国から上海のアメリカ租界に至り、更にアメリカに渡ろうとした。 百田尚樹『日本国紀』は「ルート途上にある満州国の外交部が旅券を出さないため、国境近くのオトポール駅(現在のロシア、ザバイカリスク駅)で足止めされた。それを知った関東軍の樋口季一郎少将は(当時)は(※1938年3月)・・・・上海租界へ移動できるように便宜を図った。この『ヒグチルート』と呼ばれるルートを通って命を救われたユダヤ人は2万人といわれている」(百田377-378頁)と述べる。
D-2 百田氏の誤り①:「2万人」は誇張だ。(浮世248頁)《参考》「オトポール事件」をきっかけにユダヤ難民救済の「ヒグチルート」が開通し、1941年ぐらいまで有効であった。難民の列車の手配を行った東亜旅行社(現・JTB)によると当初1938年、オトポールに押し寄せた難民は100-200人、その後、1939年に551名、1940年に3574名だ。(1941年の数は不明。)
(62)-2 百田氏の誤り②:樋口少将が「便宜を図った」とは、「満州国外交部」と協議し「人道上の問題」として扱うよう合意した点だ!(248頁)
D-3 百田氏の誤り②:樋口少将が「上海租界へ移動できるように便宜を図った」とあるが、彼は「満州国外交部」と種々協議し「人道上の問題であることに意見の一致を見た」限りで「便宜を図った」。それ以上、具体的に「ユダヤ人に食料・衣服・医薬品などを支給した上で、上海租界へ移動できるように便宜を図った」のは満州国外交部で、樋口少将は関与していない。
(62)-3 百田氏の誤り③:ドイツの日本への抗議は「オトポール事件」に対してでない!(248-251頁)
D-4 「このことを知ったドイツは、日本に対して強く抗議した。」とあるが、「このこと」(「オトポールに集まったユダヤ人難民の入国・通行を認めたこと」)についてドイツが「抗議」したのでない。「オトポール事件」の約半年後のユダヤ人による「樋口謝恩大会」(ハルビン)で、樋口が「(ドイツがユダヤ人を)追放せんとするならならば、その行き先を明示しあらかじめそれを準備すべきである」と演説したことに対してだ。ドイツは樋口が「ドイツの国策を批判し誹謗した」として日本に抗議した。
D-4-2 「そもそもナチスはこの段階では《ユダヤ人を国外に追放すること》を政策として実施していたのだから、ユダヤ人がどこの国を通過し、どこの国が受け入れようと、それに関して抗議する意味はなかった。」(250頁)