(7)「芭蕉も暮らす」
★松尾芭蕉(1644-1694):「漂泊の詩人」である芭蕉も、旅に出ていない時は深川の芭蕉庵に暮らす人だった。
(a) 芭蕉は隅田川の向うに隠者のように芭蕉庵を構えた(37歳)!
「芭蕉野分して盥(タライ)に雨を聞く夜哉」(1681年、38歳(数え年)の句。強い雨風に煽られる芭蕉の葉、盥に落ちる雨漏り音、不安な夜。)前年の冬に芭蕉はここに引っ越した。芭蕉は江戸に29歳でやって来た。それから10年近く経ち、彼は念願の俳諧宗匠となり、華やかな日本橋に住んだ。ところが37歳で芭蕉は隅田川の向うに隠者のように芭蕉庵を構えた。「芭蕉野分して」の句は杜甫の漢詩世界への憧れ。芭蕉の深川隠棲の狙いは、談林俳諧の奇抜斬新を目指す趣向の限界を見据え、新たな俳諧の境地を見出すことだった。芭蕉の戦略は当たり、芭蕉の俳諧は「都市生活から意図的距離を置いて隠遁するアウトサイダーの文芸」(167頁)として認められていく。
(b) 『野ざらし紀行』:芭蕉は気負っている(41歳)!
「野ざらしを心に風のしむ身かな」(芭蕉41歳、最初の長旅となる『野ざらし紀行』の旅に出る。芭蕉は気負っている。)芸術を深めようという決意か?「野ざらし」は行き倒れ風にさらされた頭骸骨。芭蕉は、故郷の伊賀上野に帰り母の墓参りをし、関西、東海地方の門弟に会い、他流試合をして新たな信奉者を得る。42歳になって深川に戻った。
(c) 「古池や蛙飛び込む水の音」:心静かな閑寂の世界!
「よく見れば薺(ナズナ)花咲く垣根かな」(機知も頓智もなく、春の訪れを見出した素直な満足感がある。)芭蕉は、深川に来た当初から比べると、俳諧で食える身となり理解者も得て、気負いが抜けた。自然体だ。「古池や蛙飛び込む水の音」(穏やか。芭蕉は、新しい美意識の世界を示した。「蕉風」「正風」の成立だ。心静かな閑寂の世界。)芭蕉は「日本橋の談林時代はゲラゲラと大笑いを喚起するような奇抜な俳句でしのぎを削り、深川に移った当初は漢文調で大仰に貧寒の暮らしを嘆じてみせた。それらに比べるとこの句の印象はとても穏やかだ。」(172頁)
(d) 『笈の小文』:「風狂」の旅だ(44歳)!
『野ざらし紀行』の旅から戻って2年余り経って、芭蕉は深川移住後、二度目の長旅(1687年、44歳)に出た。(後に『笈の小文』にまとめる。)「旅人と我が名呼ばれん初時雨」(『野ざらし紀行』のような悲壮感はない。)名古屋を中心に歌仙を開き、伊賀上野で新年を迎え、伊勢・関西をめぐる「風狂」の旅だ。江戸にもどった芭蕉は45歳になっていた。
(e) 『奥の細道』:死者に会う旅(46歳)!
芭蕉46歳の春、彼はいよいよ『奥の細道』の旅に出る。老いを感じ始めた芭蕉にとって、自らの芸術を大成させるため、文字通り命懸けの旅だった。「草の戸も住替(スミカ)わる代ぞひなの家」(芭蕉はこの旅立ちに当たって、芭蕉庵を処分した。「果たして江戸に帰ってこられるかわからない」という覚悟だ。)芭蕉は西行など尊敬する古人の踏んだ道をたどり、「歌枕」(和歌に詠まれてきた地)をたどる。芸術的な衝動にかられ、いわば死者に会う旅だ。「夏草や兵(ツワモノ)どもが夢のあと」(栄華を誇った奥州藤原氏、頼朝方の追手を逃れてきた義経主従もこの地の露と消えた。)『奥の細道』の旅は大垣で終わる。
(f)「軽み」:「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」!
落柿舎に滞在した芭蕉は『猿蓑』(1691年、48歳)をまとめる。これは芭蕉一門の最高の選集と言われる。この頃から芭蕉は「軽み」を説き始めた。「軽み」とは、観念・理屈を捨て、風流ぶりをやめ、古典・故事に寄りかからず、見たまま・感じたままを素直なことばで詠むことだ。(多くの弟子たちは当惑した。)芭蕉49歳の5月、弟子たちが新しく用意してくれた深川の芭蕉庵に移る。「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」(かつての「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」の気負いとは違い、「俳句と暮らす人の飾りのない目」がある。芭蕉51歳、1694年)。
(g) 「この秋はなんで年よる雲に鳥」:「こうも年を取ってしまった」と芭蕉が嘆く(51歳)!
この年、5月に芭蕉は最後の旅に出る。「この秋はなんで年よる雲に鳥」(「こうも年を取ってしまった」と芭蕉が嘆く。)伊賀上野に寄り、大坂に着く。大坂で仲違いする弟子たちの仲裁に芭蕉は出かけてきた。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」芭蕉は大坂で10月8日にこの句を詠み、12日に亡くなった。
★松尾芭蕉(1644-1694):「漂泊の詩人」である芭蕉も、旅に出ていない時は深川の芭蕉庵に暮らす人だった。
(a) 芭蕉は隅田川の向うに隠者のように芭蕉庵を構えた(37歳)!
「芭蕉野分して盥(タライ)に雨を聞く夜哉」(1681年、38歳(数え年)の句。強い雨風に煽られる芭蕉の葉、盥に落ちる雨漏り音、不安な夜。)前年の冬に芭蕉はここに引っ越した。芭蕉は江戸に29歳でやって来た。それから10年近く経ち、彼は念願の俳諧宗匠となり、華やかな日本橋に住んだ。ところが37歳で芭蕉は隅田川の向うに隠者のように芭蕉庵を構えた。「芭蕉野分して」の句は杜甫の漢詩世界への憧れ。芭蕉の深川隠棲の狙いは、談林俳諧の奇抜斬新を目指す趣向の限界を見据え、新たな俳諧の境地を見出すことだった。芭蕉の戦略は当たり、芭蕉の俳諧は「都市生活から意図的距離を置いて隠遁するアウトサイダーの文芸」(167頁)として認められていく。
(b) 『野ざらし紀行』:芭蕉は気負っている(41歳)!
「野ざらしを心に風のしむ身かな」(芭蕉41歳、最初の長旅となる『野ざらし紀行』の旅に出る。芭蕉は気負っている。)芸術を深めようという決意か?「野ざらし」は行き倒れ風にさらされた頭骸骨。芭蕉は、故郷の伊賀上野に帰り母の墓参りをし、関西、東海地方の門弟に会い、他流試合をして新たな信奉者を得る。42歳になって深川に戻った。
(c) 「古池や蛙飛び込む水の音」:心静かな閑寂の世界!
「よく見れば薺(ナズナ)花咲く垣根かな」(機知も頓智もなく、春の訪れを見出した素直な満足感がある。)芭蕉は、深川に来た当初から比べると、俳諧で食える身となり理解者も得て、気負いが抜けた。自然体だ。「古池や蛙飛び込む水の音」(穏やか。芭蕉は、新しい美意識の世界を示した。「蕉風」「正風」の成立だ。心静かな閑寂の世界。)芭蕉は「日本橋の談林時代はゲラゲラと大笑いを喚起するような奇抜な俳句でしのぎを削り、深川に移った当初は漢文調で大仰に貧寒の暮らしを嘆じてみせた。それらに比べるとこの句の印象はとても穏やかだ。」(172頁)
(d) 『笈の小文』:「風狂」の旅だ(44歳)!
『野ざらし紀行』の旅から戻って2年余り経って、芭蕉は深川移住後、二度目の長旅(1687年、44歳)に出た。(後に『笈の小文』にまとめる。)「旅人と我が名呼ばれん初時雨」(『野ざらし紀行』のような悲壮感はない。)名古屋を中心に歌仙を開き、伊賀上野で新年を迎え、伊勢・関西をめぐる「風狂」の旅だ。江戸にもどった芭蕉は45歳になっていた。
(e) 『奥の細道』:死者に会う旅(46歳)!
芭蕉46歳の春、彼はいよいよ『奥の細道』の旅に出る。老いを感じ始めた芭蕉にとって、自らの芸術を大成させるため、文字通り命懸けの旅だった。「草の戸も住替(スミカ)わる代ぞひなの家」(芭蕉はこの旅立ちに当たって、芭蕉庵を処分した。「果たして江戸に帰ってこられるかわからない」という覚悟だ。)芭蕉は西行など尊敬する古人の踏んだ道をたどり、「歌枕」(和歌に詠まれてきた地)をたどる。芸術的な衝動にかられ、いわば死者に会う旅だ。「夏草や兵(ツワモノ)どもが夢のあと」(栄華を誇った奥州藤原氏、頼朝方の追手を逃れてきた義経主従もこの地の露と消えた。)『奥の細道』の旅は大垣で終わる。
(f)「軽み」:「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」!
落柿舎に滞在した芭蕉は『猿蓑』(1691年、48歳)をまとめる。これは芭蕉一門の最高の選集と言われる。この頃から芭蕉は「軽み」を説き始めた。「軽み」とは、観念・理屈を捨て、風流ぶりをやめ、古典・故事に寄りかからず、見たまま・感じたままを素直なことばで詠むことだ。(多くの弟子たちは当惑した。)芭蕉49歳の5月、弟子たちが新しく用意してくれた深川の芭蕉庵に移る。「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」(かつての「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」の気負いとは違い、「俳句と暮らす人の飾りのない目」がある。芭蕉51歳、1694年)。
(g) 「この秋はなんで年よる雲に鳥」:「こうも年を取ってしまった」と芭蕉が嘆く(51歳)!
この年、5月に芭蕉は最後の旅に出る。「この秋はなんで年よる雲に鳥」(「こうも年を取ってしまった」と芭蕉が嘆く。)伊賀上野に寄り、大坂に着く。大坂で仲違いする弟子たちの仲裁に芭蕉は出かけてきた。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」芭蕉は大坂で10月8日にこの句を詠み、12日に亡くなった。