※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)
(63)百田氏の誤り①:イタリアが英仏へ宣戦布告したのは、フランスの降伏「後」でない!(浮世252頁)
E 第2次大戦に関し、百田尚樹『日本国紀』は「[英仏]両国軍はあっという間に撃破され、イギリス軍はユーロッパ大陸から撃破され、フランスは首都パリと国土の5分の3を占領された。それを見てイタリアもイギリス、フランスに宣戦布告した」(百田380頁)と述べる。
E-2 百田氏の誤り①:これは出来事の順序が史実として誤りだ。イタリアが英仏へ宣戦布告したのは1940/6/10だ。これに対し、フランスが降伏したのは1940/6/14、ドイツとフランスの休戦協定締結は1940/6/22。その「後」に、イタリアが参戦したのでない。
(63)-2 百田氏の誤り②:「バスに乗り遅れるな」と「陸軍」がドイツとの同盟を進めたのでない!「バスに乗り遅れるな」と「政党、各団体」が解散し「新体制」に参加・合流した!(浮世252-253頁)
E-3 百田氏は「ドイツの破竹の進撃を見た陸軍内にも、『バスに乗り遅れるな』との声が上がり、新聞もそれを支持した。そして1940年9月、近衛文麿内閣は『日独伊三国同盟』を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた」(百田380頁)と述べる。
E-3-2 これは誤りだ。「バスに乗り遅れるな」という標語は、《「破竹の進撃」を続けるドイツと同盟を結ぶべし》の意味ではない。(浮世252-3頁)
(ア)1940年6月、近衛文麿は枢密院議長を辞任し、「新体制運動」を展開する。これはナチスやファシスト党にならって大衆組織を基盤とする「指導政党」をつくり、既成政党政治の打破、全国民の戦争協力への動員をめざす革新運動だった。
(イ)これを見た立憲政友会、社会大衆党、立憲民政党らの政党、各団体が「バスに乗り遅れるな」を合言葉に、解散して「新体制」に参加・合流していった。
(ウ) 陸軍がこれを見て、近衛の首相就任に期待し、1940年1月米内内閣を退陣させた。《参考》米内の退陣声明には「內外重要國務の遂行につき全力を舉げて努力し來たりたるも、陸軍大臣は近時の政情に鑑み辞表を提出した」とある。
(63)百田氏の誤り①:イタリアが英仏へ宣戦布告したのは、フランスの降伏「後」でない!(浮世252頁)
E 第2次大戦に関し、百田尚樹『日本国紀』は「[英仏]両国軍はあっという間に撃破され、イギリス軍はユーロッパ大陸から撃破され、フランスは首都パリと国土の5分の3を占領された。それを見てイタリアもイギリス、フランスに宣戦布告した」(百田380頁)と述べる。
E-2 百田氏の誤り①:これは出来事の順序が史実として誤りだ。イタリアが英仏へ宣戦布告したのは1940/6/10だ。これに対し、フランスが降伏したのは1940/6/14、ドイツとフランスの休戦協定締結は1940/6/22。その「後」に、イタリアが参戦したのでない。
(63)-2 百田氏の誤り②:「バスに乗り遅れるな」と「陸軍」がドイツとの同盟を進めたのでない!「バスに乗り遅れるな」と「政党、各団体」が解散し「新体制」に参加・合流した!(浮世252-253頁)
E-3 百田氏は「ドイツの破竹の進撃を見た陸軍内にも、『バスに乗り遅れるな』との声が上がり、新聞もそれを支持した。そして1940年9月、近衛文麿内閣は『日独伊三国同盟』を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた」(百田380頁)と述べる。
E-3-2 これは誤りだ。「バスに乗り遅れるな」という標語は、《「破竹の進撃」を続けるドイツと同盟を結ぶべし》の意味ではない。(浮世252-3頁)
(ア)1940年6月、近衛文麿は枢密院議長を辞任し、「新体制運動」を展開する。これはナチスやファシスト党にならって大衆組織を基盤とする「指導政党」をつくり、既成政党政治の打破、全国民の戦争協力への動員をめざす革新運動だった。
(イ)これを見た立憲政友会、社会大衆党、立憲民政党らの政党、各団体が「バスに乗り遅れるな」を合言葉に、解散して「新体制」に参加・合流していった。
(ウ) 陸軍がこれを見て、近衛の首相就任に期待し、1940年1月米内内閣を退陣させた。《参考》米内の退陣声明には「內外重要國務の遂行につき全力を舉げて努力し來たりたるも、陸軍大臣は近時の政情に鑑み辞表を提出した」とある。