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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(63)-2 百田氏の誤り③:なぜアメリカが日本を「敵視」したかの説明がない!大国(日本・欧米)のエゴの衝突・連携が戦争をもたらした!

2021-04-07 16:48:23 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(63)-3 百田氏の誤り③:なぜアメリカが日本を「敵視」するようなったかの記述がない!「東亜新秩序」建設の表明(1938/11)は、東アジアにおける「自由貿易圏」の確立をめざすアメリカ・イギリスを刺激した!ドイツの優勢(Ex. 1940/6独仏休戦協定)を見て、陸軍を中心に、ドイツとの提携、英米との戦争を覚悟の上、南方進出論が強まる!第2次近衛内閣が成立し、1940/9「日独伊三国同盟」締結!(浮世253-255頁)
E-4 さて1940年7月成立した第2次近衛内閣(1940/7-1941/7)は「欧州大戦介入」・「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」・「積極的南方進出」を3つの内閣の基本方針として組閣された。そして1940年9月「日独伊三国同盟」を締結した。
E-4-2 「日独伊三国同盟」(1940/9)について、百田尚樹『日本国紀』は「この同盟は、実質的には日本に大きなメリットはなく、アメリカとの関係を決定的に悪くしただけの、実に愚かな同盟締結だったといわざるを得ない。もっともアメリカのルーズベルト民主党政権(1933-1945)はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力をかけていた」(百田380頁)と述べる。
E-4-3  百田氏の誤り③:しかし百田氏の記述には、なぜアメリカが日本を「敵視」するようになったかの記述がない。国と国の関係は相互作用的なものだから、日本の行動を説明しない点で、百田氏は一面的で誤っている。(浮世253頁)

◎第1次近衛内閣「東亜新秩序」建設の表明(1938/11)!&東アジアにおける「自由貿易圏」の確立をめざしていたアメリカ・イギリスを刺激!
(a)1937年7月に始まった日中戦争は泥沼化の様相を呈していたにもかかわらず、第1次近衛内閣(1937/6-1939/1)は「[蒋介石の]国民政府を対手(アイテ)とせず」と声明(1938/1)し、さらに日中戦争の目的を「後付け」して、日・満・華三連帯による「東亜新秩序」建設であると表明(1938/11)した。
(a)-2 「東亜新秩序」建設の表明(1938/11)は、東アジアにおける「自由貿易圏」の確立をめざしていたアメリカ・イギリスを刺激した。当然、日米間の貿易額はここから減少し始める。

◎1938年夏、日本とドイツの接近!&1939年7月、アメリカは日米通商条約破棄を日本に通告!
(b)このタイミングで1938年夏、ドイツが防共協定を強化し英仏を仮想敵国とすることを提案してきた。日本とドイツの接近を受けて、平沼内閣(1939/1-1939/8)の時、1939年7月、アメリカは日米通商条約の破棄を日本に通告した。(1940年1月日米通商条約は失効し、日本は軍需資材の入手が困難となった。)
(b)-2 《参考》平沼内閣は共産主義に対抗する枢軸としてドイツとの関係強化をめざしていたが、1939年8月ドイツが突然、ソ連と独ソ不可侵条約を締結した。平沼首相は「複雑怪奇」声明(「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」)をだし内閣総辞職した。

◎1939年9月第2次世界大戦開始以降、阿部内閣。米内内閣が「欧州大戦不介入」の立場をとったのは、日中戦争遂行のための資源・軍需物資の調達に関して合理的だ!
(c)1939年9月ドイツのポーランド侵攻に始まった第2次世界大戦に対して、阿部信行内閣(1939/9-1940/1)も米内光政内閣(1940/1-1940/7)もドイツとの軍事同盟には消極的で「欧州大戦不介入」の立場をとり続けた。
(c)-2 一方、日中戦争はどんどん深刻化。(Cf. 1940/3親日の汪兆銘・南京国民政府成立。蒋介石は重慶国民政府。)日本の資源・軍需物資は「円ブロック」(台湾・朝鮮・満州国・中国占領地)の中だけでは充足できず、欧米およびその植民地からの輸入に頼らなくてはならかった。
(c)-3 阿部内閣、米内内閣が「欧州大戦不介入」の立場をとったのは、日中戦争遂行のための資源・軍需物資の調達に関し合理的だ。日本がドイツと連携すれば、米英との対立が深刻となり、資源・軍需物資の調達が得られなくなるからだ。

◎ドイツの優勢(Ex. 1940/6独仏休戦協定)を見て、陸軍を中心に、ドイツとの提携、英米との戦争を覚悟の上南方進出論が強まる!
(d)ところがヨーロッパでのドイツの優勢(Ex. 1940/6独仏休戦協定)を見て、陸軍を中心に、ドイツとの結びつきを強め、英米との戦争を覚悟の上南方に進出し、「大東亜共栄圏」(※1940/7第2次近衛文麿内閣の発足時の「基本国策要綱」に「大東亜新秩序」の建設として掲げられた)の建設を図り、石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源を得ようという主張が急激に高まる。
(d)-2 《参考》陸軍の意向で1940/7、米内内閣が総辞職に追い込まれた。昭和天皇は米内内閣が瓦解した際、木戸幸一内大臣に「米內內閣を今日も尚」信任していると述べ、「內外の情勢により更迭を見るは不得止とするも、自分の氣持ちは米內に傳へる樣に」と命じた。また戦後も「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と昭和天皇が悔いていたことが知られている。
(d)-3 日本の南方進出は当然、東南アジアなどに利権を持つ欧米諸国との対立を深め、日本に対する経済封鎖が強まることになる。

◎1940/7第2次近衛内閣(1940/7-1941/7)成立:「欧州大戦介入」・「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」・「積極的南方進出」!1940/9「日独伊三国同盟」締結!日本と欧米、それぞれ大国のエゴの衝突・連携がアジア太平洋での戦争をもたらした!
(e) かくて陸軍の影響下に、1940/7、第2次近衛内閣(1940/7-1941/7)が「欧州大戦介入」・「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」・「積極的南方進出」を3つの基本方針として成立。そして1940年9月「日独伊三国同盟」を締結した。
(e)-2 「日独伊三国同盟」締結(1940/9)について、百田氏は既述したように「アメリカのルーズベルト民主党政権(1933-1945)はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力をかけていた」(百田380頁)と述べる。しかし以上(a)~(e)で述べたように、「日本と植民地に利権を持つ欧米、それぞれ大国のエゴの衝突・連携がアジア太平洋での戦争をもたらしたのであって、アメリカの非のみを鳴らすのは全体を見失う説明だ。」(浮世254-255頁)

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