※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)
(70)-2 百田氏の誤り②:日本による「ビルマの独立」の承認といっても、「独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった」!アウンサンの指揮する人民独立軍が、1945年3月、日本軍に対して武装蜂起した!(277-278頁)
K-3 百田氏は「1943年には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて『大東亜会議』を開いている。実際に1943年8月1日にビルマを、10月14日にフィリピンの独立を承認している」(百田392頁)と述べる。日本による「ビルマの独立」、「フィリピンの独立」の承認を、百田氏は日本がアジアの人々に「植民地支配からの解放」をもたらした実例だという。(浮世277頁)
K-4 百田氏の誤り②:日本による(イギリスからの)「ビルマの独立」の承認といっても、「独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった。真の「ビルマの独立」と言えない。以下詳しく見てみよう。(浮世277-278頁)
(ア)アウンサンらは、まず日本軍に接触し、ビルマ独立の確約を得て日本軍に協力することとなった。そして独立義勇軍を結成し、以後、日本軍とともにビルマ国内で活動する。
(イ)しかしビルマを占領すると、日本は軍政を敷き、ビルマ独立実現を引き延ばした。
(イ)-2 すでに開戦前に「南方占領地行政実施要領」を定め、また開戦直後に「南方経済対策要綱」を定め、日本はビルマに「軍政」を敷くことを決めていた。にもかかわらずアウンサンと「独立の約束」をして日本は彼らを利用した。
(ウ)「軍政」下の、バーモウを長官とするビルマ中央政府は、日本軍司令官のもとでの傀儡政権だった。
(エ)日本軍政下のビルマでは①軍票の乱発による経済混乱、②泰緬鉄道(Thai-Burma Railway)建設(1942/6-1943/10)のための労働者の強制動員(※「死の鉄道」)、③天皇崇拝が強制され、ビルマの人々の強い反発を生んだ。
(オ)日本がビルマの独立を認めたのは、日本の戦局が不利になっていた1943年8月だった。しかし独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった。
(カ)日本の敗戦が見え始めた1944年8月、アウンサンが抗日統一戦線の結成を発表。
(キ)アウンサンの指揮する人民独立軍が、1945年3月、日本軍とそれに味方するバー・モウ政権に対して武装蜂起。
(キ)-2 同年5月、連合軍の力を借りることなくラングーンを自力解放した。(浮世277-278頁)
K-4-2 百田氏は2016年来日した現ミャンマーのセイン・ウィン国防大臣の発言を『日本国紀』に引用する。「わが国の独立の歴史において、日本と旧日本軍による軍事支援は大きな意味があった」(百田446頁)。だが、これは政治家の「社交辞令」であって、歴史的事実の根拠にならない。(※上記(ア)の段階のことを彼は述べ、(イ)-2アウンサンと「独立の約束」をして日本は彼らを利用したことは述べない。さらに彼は、かつて自国で(カ)(キ)(キ)-2「抗日統一戦線」が結成され日本と戦って独立したことには言及しない!)(浮世278頁)
(70)-2 百田氏の誤り②:日本による「ビルマの独立」の承認といっても、「独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった」!アウンサンの指揮する人民独立軍が、1945年3月、日本軍に対して武装蜂起した!(277-278頁)
K-3 百田氏は「1943年には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて『大東亜会議』を開いている。実際に1943年8月1日にビルマを、10月14日にフィリピンの独立を承認している」(百田392頁)と述べる。日本による「ビルマの独立」、「フィリピンの独立」の承認を、百田氏は日本がアジアの人々に「植民地支配からの解放」をもたらした実例だという。(浮世277頁)
K-4 百田氏の誤り②:日本による(イギリスからの)「ビルマの独立」の承認といっても、「独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった。真の「ビルマの独立」と言えない。以下詳しく見てみよう。(浮世277-278頁)
(ア)アウンサンらは、まず日本軍に接触し、ビルマ独立の確約を得て日本軍に協力することとなった。そして独立義勇軍を結成し、以後、日本軍とともにビルマ国内で活動する。
(イ)しかしビルマを占領すると、日本は軍政を敷き、ビルマ独立実現を引き延ばした。
(イ)-2 すでに開戦前に「南方占領地行政実施要領」を定め、また開戦直後に「南方経済対策要綱」を定め、日本はビルマに「軍政」を敷くことを決めていた。にもかかわらずアウンサンと「独立の約束」をして日本は彼らを利用した。
(ウ)「軍政」下の、バーモウを長官とするビルマ中央政府は、日本軍司令官のもとでの傀儡政権だった。
(エ)日本軍政下のビルマでは①軍票の乱発による経済混乱、②泰緬鉄道(Thai-Burma Railway)建設(1942/6-1943/10)のための労働者の強制動員(※「死の鉄道」)、③天皇崇拝が強制され、ビルマの人々の強い反発を生んだ。
(オ)日本がビルマの独立を認めたのは、日本の戦局が不利になっていた1943年8月だった。しかし独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった。
(カ)日本の敗戦が見え始めた1944年8月、アウンサンが抗日統一戦線の結成を発表。
(キ)アウンサンの指揮する人民独立軍が、1945年3月、日本軍とそれに味方するバー・モウ政権に対して武装蜂起。
(キ)-2 同年5月、連合軍の力を借りることなくラングーンを自力解放した。(浮世277-278頁)
K-4-2 百田氏は2016年来日した現ミャンマーのセイン・ウィン国防大臣の発言を『日本国紀』に引用する。「わが国の独立の歴史において、日本と旧日本軍による軍事支援は大きな意味があった」(百田446頁)。だが、これは政治家の「社交辞令」であって、歴史的事実の根拠にならない。(※上記(ア)の段階のことを彼は述べ、(イ)-2アウンサンと「独立の約束」をして日本は彼らを利用したことは述べない。さらに彼は、かつて自国で(カ)(キ)(キ)-2「抗日統一戦線」が結成され日本と戦って独立したことには言及しない!)(浮世278頁)