宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(70)-2 百田氏の誤り②:「ビルマの独立」といっても「日本軍の管理下にあった」!アウンサンの人民独立軍が、日本軍に対し武装蜂起した!

2021-04-21 11:20:23 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)

(70)-2 百田氏の誤り②:日本による「ビルマの独立」の承認といっても、「独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった」!アウンサンの指揮する人民独立軍が、1945年3月、日本軍に対して武装蜂起した!(277-278頁)
K-3 百田氏は「1943年には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて『大東亜会議』を開いている。実際に1943年8月1日にビルマを、10月14日にフィリピンの独立を承認している」(百田392頁)と述べる。日本による「ビルマの独立」、「フィリピンの独立」の承認を、百田氏は日本がアジアの人々に「植民地支配からの解放」をもたらした実例だという。(浮世277頁)
K-4 百田氏の誤り②:日本による(イギリスからの)「ビルマの独立」の承認といっても、「独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった。真の「ビルマの独立」と言えない。以下詳しく見てみよう。(浮世277-278頁)

(ア)アウンサンらは、まず日本軍に接触し、ビルマ独立の確約を得て日本軍に協力することとなった。そして独立義勇軍を結成し、以後、日本軍とともにビルマ国内で活動する。
(イ)しかしビルマを占領すると、日本は軍政を敷き、ビルマ独立実現を引き延ばした。
(イ)-2 すでに開戦前に「南方占領地行政実施要領」を定め、また開戦直後に「南方経済対策要綱」を定め、日本はビルマに「軍政」を敷くことを決めていた。にもかかわらずアウンサンと「独立の約束」をして日本は彼らを利用した。
(ウ)「軍政」下の、バーモウを長官とするビルマ中央政府は、日本軍司令官のもとでの傀儡政権だった。
(エ)日本軍政下のビルマでは①軍票の乱発による経済混乱、②泰緬鉄道(Thai-Burma Railway)建設(1942/6-1943/10)のための労働者の強制動員(※「死の鉄道」)、③天皇崇拝が強制され、ビルマの人々の強い反発を生んだ。

(オ)日本がビルマの独立を認めたのは、日本の戦局が不利になっていた1943年8月だった。しかし独立後も、軍事・外交・経済は日本軍の管理下にあった。
(カ)日本の敗戦が見え始めた1944年8月、アウンサンが抗日統一戦線の結成を発表。
(キ)アウンサンの指揮する人民独立軍が、1945年3月、日本軍とそれに味方するバー・モウ政権に対して武装蜂起。
(キ)-2 同年5月、連合軍の力を借りることなくラングーンを自力解放した。(浮世277-278頁)

K-4-2 百田氏は2016年来日した現ミャンマーのセイン・ウィン国防大臣の発言を『日本国紀』に引用する。「わが国の独立の歴史において、日本と旧日本軍による軍事支援は大きな意味があった」(百田446頁)。だが、これは政治家の「社交辞令」であって、歴史的事実の根拠にならない。(※上記(ア)の段階のことを彼は述べ、(イ)-2アウンサンと「独立の約束」をして日本は彼らを利用したことは述べない。さらに彼は、かつて自国で(カ)(キ)(キ)-2「抗日統一戦線」が結成され日本と戦って独立したことには言及しない!)(浮世278頁)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川軽舟(1961-)『俳句と暮らす』(その2)(2016年、55歳):(3)「妻に会う」、(4)「散歩をする」!

2021-04-21 08:29:53 | Weblog
(3)「妻に会う」
★小川軽舟(1961-):「旅先に妻と落ち合う穂麦かな」(単身赴任の夫と自宅の妻が中間の地で待ち合わせる。)
★中村草田男(1901-1983):愛妻俳句の秀作で知られる俳人。「吾妻(アヅマ)かの三日月ほどの吾子(アコ)胎(ヤド)すか」(あの空にかかる三日月ほどの胎児と妻への優しい思い。)
★森澄雄(スミオ)(1919-2010):愛妻俳句の秀作あり。「妻亡くて道に出ており春の暮」(澄雄は妻の死から22年生きて91歳で亡くなった。)
★山口波津女(ハツジョ)(1906-1985):山口誓子の妻。「毛糸編み来世も夫(ツマ)にかく編まん」(夫に惚れている。「愛情は泉のごとし毛糸編む」の句もある。)
★池田澄子(1936-):「定位置に夫と茶筒と守宮(ヤモリ)かな」(見なれた日常の風景。それぞれが定位置。夫も風景にすぎない。)
★西村和子(1948-):「熱燗(アツカン)の夫(ツマ)にも捨てしゆめあらむ」(晩酌の夫。自足していい気分。しかし昔は野心的だったのだろうが、まあいいか!)「林檎剥き分かち与へむ人はなし」(夫、享年六十。絶唱。)
★江渡(エト)華子(1984-):俳人かつ新聞記者の山口優夢(ユウム)と結婚。「父となる夫眠れる冬の雨」(自分の夫が父となっていく過程を親しく感じている。夫を美化も戯画化もせず、ありのままを描く「平成時代の夫婦」と小川軽舟氏が言う。)

(4)「散歩をする」
★小川軽舟(1961-):「平凡な言葉かがやくはこべかな」(春をまた迎えることのできたよろこび。)
★中杉隆世(タカヨ)(1935-):「春風や灘の一ツ火草の中」(神戸の保久良(ホクラ)神社の常夜灯。)
★波多野爽波(ソウハ)(1923-1991):「吾(ア)を容れて羽ばたくごとし春の山」(神戸の岡本の裏山。春の山が好きだった。)
★和田悟朗(ゴロウ)(1923-2015):「天上に川あるごとく靴流る」(天上川は神戸にある細い川。形而上的。)
★正岡子規(1867-1902):「吾(ワガ)袖に来てはねかへる螽(イナゴ)かな」(子規の根岸「郊外散歩」での「写生」の句。)
★高浜虚子(1874-1959):「蓼科(タテシナ)に春の雲今動きをり」(小諸へ疎開中の句。)
★森田愛子(1917-1947):虚子の若く美しい夭折の女弟子。「ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ アイコ」(美しい「虹」を見た虚子が愛子に送った三句への返信の電報。)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする