※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)
(65)百田氏の誤り①:「アメリカが一方的に経済制裁をして日本を戦争に追いつめた」と述べる百田氏は誤りだ!(258-259頁)
G 下記のような日本の行動によって「アメリカの敵意」と「経済制裁」は強まっていった。「アメリカが一方的に経済制裁をして日本を戦争に追いつめた」と述べる百田氏は誤りだ。(浮世258頁)
(ア)第1次近衛内閣(1937/6-1939/1)(1938/1「[蒋介石の]国民政府を対手(アイテ)とせず」と声明)に対し、1938年夏、ドイツが防共協定を強化し英仏を仮想敵国とすることを提案するなど、日本とドイツが接近した。また(イ) 日・満・華三連帯による「東亜新秩序」建設の表明(1938/11)は、東アジアにおける「自由貿易圏」の確立をめざしていたアメリカ・イギリスを刺激した。(ウ) 1939/5-10《蒋介石の重慶国民政府》が置かれている重慶無差別爆撃は米英との対立を深めた。こうした中、(ウ)-2 1939年7月、アメリカは日米通商条約の破棄を日本に通告した。(1940年1月日米通商条約は失効し、日本は軍需資材の入手が困難となった。) (エ) 阿部内閣(1939/9-1940/1)と米内内閣(1940/1-1940/7)は欧州大戦には介入せず、欧米との対立で、これ以上の輸入が減らないようにしてきた。(オ)ところが軍部(陸軍)が1940年6月独ソ戦開始後のドイツの優勢を見て、アメリカ・イギリスとの衝突覚悟で方針を転換させ、1940年7月、第2次近衛内閣(1940/7-1941/7)を成立させた。第2次近衛内閣は「欧州大戦介入」・「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」・「積極的南方進出」を3つの内閣の基本方針として組閣された。(カ)そして1940/9日独伊三国同盟が締結される。(キ)そして同時に日本は1940/9北部仏印進駐を行う。(浮世253-254頁、257頁)
G-2 第2次近衛内閣は「日米交渉」(駐米大使の野村吉三郎と国見長官ハルとの交渉、1941/4/14-1941/11)を始めた。百田氏は「日本は必死で戦争回避の道を探った」と述べるが、これは「対米宥和派」の意見・行動に関してだ。日本は「対米強硬派」(軍部など)の意見・行動に従い、正反対の行動をとった。(浮世258-259頁)
G-2-2 日本は「一方で和平を唱え、一方で進出(※米英との対立)の手をゆるめない」。日本の「外交・対外姿勢」は米国に(or国際的に)不信を持たれていた。(以下の通り。)
(a)外相松岡洋右はモスクワで「日ソ中立条約」(1941/4/13)を締結する。これは「南進」を進めるための北方の平和確保が狙いで、アメリカもイギリスもそのように判断した。その直後に「日米交渉」が始まった。《感想》日本の欺瞞的な「交渉」だ!(浮世258頁)
(b)「日米交渉」の最中の1941年7月御前会議は軍部の強い主張で「対英米戦覚悟の南方進出」を決めた。(浮世258頁)
(c) そもそも米国は日本の「外交・対外姿勢」に不信を持っていた。この1941年7月御前会議では、1941年6月の独ソ戦開戦を見て、軍部の強い主張で「情勢が有利になれば対ソ戦(北進)を行う」ことも決定した。陸軍はシベリア・極東ソ連の占領計画にもとづき、70万の兵を終結させ「関東軍特種演習」を実施した。日ソ中立条約を結びながら、独ソ戦が開戦されるやソ連の背後を狙う日本の行動は、ソ連の不信とともに、米国の不信も招くものだった。
(d)さらに日本の「外交・対外姿勢」が国際的な不信を高めたのは、「日本は政府内部や軍内部でも対米強硬派と宥和派に対立しており、それぞれの行動が統一されなかったことだ。(Cf. これはナチスとの決定的な違いで、日本は「全体主義」or「ファシズム」と言えない。)
(e)「日米交渉」(駐米大使の野村吉三郎と国見長官ハルとの交渉)が決定的に無意味となるのは、1941年7月「南部仏印進駐」によってだ。
(e)-2 近衛文麿は、松岡洋右の対米強硬路線が、アメリカを中心とする経済制裁と「余計な対立」をもたらしていると考え、松岡らを内閣から除くためいったん総辞職して第3次近衛内閣を1941年7月に成立させた。
(e)-3 しかし軍部は政府方針に反しこの第3次近衛内閣の時、「南部仏印進駐」を実行した。(「日米交渉」の最中だ。)同月、米国が日本の在米資産凍結令を実施し、英蘭もこれに倣った。1941年8月米国は日本への石油輸出を全面的に禁止した。(浮世258-259頁)
《感想》日本はこうした米国の反応を予測できず、「日米交渉」が続けられたが、以後、日本は武力解決の道に進む。南部仏印進駐は太平洋戦争につながるターニングポイントの一つだった。
(65)百田氏の誤り①:「アメリカが一方的に経済制裁をして日本を戦争に追いつめた」と述べる百田氏は誤りだ!(258-259頁)
G 下記のような日本の行動によって「アメリカの敵意」と「経済制裁」は強まっていった。「アメリカが一方的に経済制裁をして日本を戦争に追いつめた」と述べる百田氏は誤りだ。(浮世258頁)
(ア)第1次近衛内閣(1937/6-1939/1)(1938/1「[蒋介石の]国民政府を対手(アイテ)とせず」と声明)に対し、1938年夏、ドイツが防共協定を強化し英仏を仮想敵国とすることを提案するなど、日本とドイツが接近した。また(イ) 日・満・華三連帯による「東亜新秩序」建設の表明(1938/11)は、東アジアにおける「自由貿易圏」の確立をめざしていたアメリカ・イギリスを刺激した。(ウ) 1939/5-10《蒋介石の重慶国民政府》が置かれている重慶無差別爆撃は米英との対立を深めた。こうした中、(ウ)-2 1939年7月、アメリカは日米通商条約の破棄を日本に通告した。(1940年1月日米通商条約は失効し、日本は軍需資材の入手が困難となった。) (エ) 阿部内閣(1939/9-1940/1)と米内内閣(1940/1-1940/7)は欧州大戦には介入せず、欧米との対立で、これ以上の輸入が減らないようにしてきた。(オ)ところが軍部(陸軍)が1940年6月独ソ戦開始後のドイツの優勢を見て、アメリカ・イギリスとの衝突覚悟で方針を転換させ、1940年7月、第2次近衛内閣(1940/7-1941/7)を成立させた。第2次近衛内閣は「欧州大戦介入」・「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」・「積極的南方進出」を3つの内閣の基本方針として組閣された。(カ)そして1940/9日独伊三国同盟が締結される。(キ)そして同時に日本は1940/9北部仏印進駐を行う。(浮世253-254頁、257頁)
G-2 第2次近衛内閣は「日米交渉」(駐米大使の野村吉三郎と国見長官ハルとの交渉、1941/4/14-1941/11)を始めた。百田氏は「日本は必死で戦争回避の道を探った」と述べるが、これは「対米宥和派」の意見・行動に関してだ。日本は「対米強硬派」(軍部など)の意見・行動に従い、正反対の行動をとった。(浮世258-259頁)
G-2-2 日本は「一方で和平を唱え、一方で進出(※米英との対立)の手をゆるめない」。日本の「外交・対外姿勢」は米国に(or国際的に)不信を持たれていた。(以下の通り。)
(a)外相松岡洋右はモスクワで「日ソ中立条約」(1941/4/13)を締結する。これは「南進」を進めるための北方の平和確保が狙いで、アメリカもイギリスもそのように判断した。その直後に「日米交渉」が始まった。《感想》日本の欺瞞的な「交渉」だ!(浮世258頁)
(b)「日米交渉」の最中の1941年7月御前会議は軍部の強い主張で「対英米戦覚悟の南方進出」を決めた。(浮世258頁)
(c) そもそも米国は日本の「外交・対外姿勢」に不信を持っていた。この1941年7月御前会議では、1941年6月の独ソ戦開戦を見て、軍部の強い主張で「情勢が有利になれば対ソ戦(北進)を行う」ことも決定した。陸軍はシベリア・極東ソ連の占領計画にもとづき、70万の兵を終結させ「関東軍特種演習」を実施した。日ソ中立条約を結びながら、独ソ戦が開戦されるやソ連の背後を狙う日本の行動は、ソ連の不信とともに、米国の不信も招くものだった。
(d)さらに日本の「外交・対外姿勢」が国際的な不信を高めたのは、「日本は政府内部や軍内部でも対米強硬派と宥和派に対立しており、それぞれの行動が統一されなかったことだ。(Cf. これはナチスとの決定的な違いで、日本は「全体主義」or「ファシズム」と言えない。)
(e)「日米交渉」(駐米大使の野村吉三郎と国見長官ハルとの交渉)が決定的に無意味となるのは、1941年7月「南部仏印進駐」によってだ。
(e)-2 近衛文麿は、松岡洋右の対米強硬路線が、アメリカを中心とする経済制裁と「余計な対立」をもたらしていると考え、松岡らを内閣から除くためいったん総辞職して第3次近衛内閣を1941年7月に成立させた。
(e)-3 しかし軍部は政府方針に反しこの第3次近衛内閣の時、「南部仏印進駐」を実行した。(「日米交渉」の最中だ。)同月、米国が日本の在米資産凍結令を実施し、英蘭もこれに倣った。1941年8月米国は日本への石油輸出を全面的に禁止した。(浮世258-259頁)
《感想》日本はこうした米国の反応を予測できず、「日米交渉」が続けられたが、以後、日本は武力解決の道に進む。南部仏印進駐は太平洋戦争につながるターニングポイントの一つだった。