春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「ビーガン好き嫌い」

2021-07-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210724
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>2021二十一世紀ことば辞典(3)ビーガン好き嫌い

 多様であることをもって良しとする春庭、食べ物に関しても、どの食べ物を食べようと、拒否しようと、それぞれの考え方でいいと思っています。
 基本、食べ物に関して好き嫌いは少ないほうだと思っています。中国で犬肉の鍋料理も食べたし、蠍の唐揚げも食べた。ただし、辛いものは苦手。シシトウや中国の唐辛子で真っ赤な火鍋は食べられず、カレーはお子様向けの大甘口。

 だれが何を食べようと、ご自由に、と思うし、宗教や民族色のしばりで豚肉は食べられないとか、牛肉はダメとか言うのもその教えが宗教信者には大切なことなのだろうと認めます。
 でも、食文化について、ちょっとだけ言いたいこともあります。

 私は、ビーガン食をしたいと思いません。
 ビーガンとは、肉や魚に加え、卵・乳製品・蜂蜜など動物性食品を食べず、蚕からとるシルク、動物の皮などの製品も身につけない人々です。動物の命を奪うことをせず、植物性由来のものだけで生きて行くと主張することを否定はしません。そういう考え方で食生活を貫きたい人は、そのように食べていけばよい。でも、自分では決して「非動物食」をしたいとは思わない。

 草木虫魚、一寸の虫にも五分の魂、と思っている春庭は、植物だって生命を持つ大事な生物だと感じます。動物性の食事はしない、というが、光合成をおこなうみどり虫はどっちになるのだろう。みどり虫を使ったクロレラ食品は、動物性植物性?移動していく粘菌は?バクテリアは?と、疑念がわいてきてしまいます。一寸の虫に五分の魂があるなら、光合成をおこなう虫にも何ミリかの魂。野原の草にも花にも精霊が宿ると感じるアミニズム系仏教徒である春庭は、植物は食べてもよく、動物は命あるから食べないという2分法バイナリーに違和感があります。
 どっちにも属さないもの、どちらにも属すもの、世界は多様な命に満ちている。

 動物を食べないといっても、植物の命を奪って人間の食料にしているのは、結局いのちの連鎖の中で他者の命を奪うことではないのか、と思っています。むろん、ビーガンの人々の好みは尊重するので、食べたくない人に「チーズを食べても牛や羊の命を奪っているわけじゃないので、チーズ食べなさい」なんて言う気もない。好みはそれぞれ。

 私はビーガンの主張が嫌い。でも、ビーガンが自分の好みを貫くことは尊重します。
 尊重するから、ある一派のビーガンの人々のように、ビーガン以外の食生活をおくる者に対して、「ビーガンは命を守る高尚な人々。ビーガン以外は、動物の命を奪うことに躊躇しない低俗な文化の人々」という眼で他者を見ないで欲しいだけ。

 昔のアメリカ捕鯨船のように、鯨の脂だけとってあとは捨ててしまうという方法で鯨を大量にとり、生息数を減らしてしまったという事実は非難されてしかるべきです。が、アイヌの人々がクマを狩って、毛皮も肉も利用し尽くし、最後は神として祀り再生を願う祭りをしたように、命をあがめ尊重する利用の仕方は、ビーガンの人々のいうような「動物を尊重しない」というのとは異なると感じるのです。
 
 クマと生きるアイヌ


 ビーガンの人々の主張を尊重しますから、動物も植物も食べつつすべての命を尊重する、という生き方も尊重してほしいのです。
 ビーガン食、おいしいし、栄養もあります。大豆たんぱくの利用とか、日本の精進料理と同じく、「持続可能な食糧」の維持にも役立つと思っています。

 私は、昆虫食を「サステナブルフード」と思っているし、ビーガン食をよいと思っているのです。ただ、ビーガン以外の食事を「不適切な食事」というふうにみなすのはやめてほしいだけ。クジラを食べない文化の人々が、クジラ食を「野蛮だ」と非難するのも、動物を食べない人が動物食材を非難するのも、私はしたくない。どの食事もおいしく楽しくいただきたい。

 と、言いつつ、きょうの晩御飯も、スーパーで半額になったころを見計らって買った、出来合い弁当の春庭。体によくないと思いつつ。いただきます。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする