夏の高校野球の地区大会も終わり、どうやら、朝日系列の我が地元のテレビローカル局は負けた高校に焦点を当てた総集編を作って、改めて「感動の場面を振り返る」コーナーで、甲子園本番まで余韻をつなげる魂胆らしい。
悔し涙を袖で拭きながらシクシク泣きじゃくる選手たちを通路に座らせて、野球部監督が労をねぎらっていた。「お前たちみたいにな、・・・どうしようもない、・・出来の悪い子供たちが、あれだけ真剣にがんばる姿を・・・見せてくれるとな、・・・俺は・・泣けてくるわけよ・・ウゥ・・(泣)」ここで、選手たちの啜り泣きが一段と大きくなる。まるで、三流スポーツ根性ドラマの一シーンのような映像が、またもやダラダラ流されていた。
私が子供の頃は、母親は何かというと、すぐ「泣いちゃダメだよ。男の子なんだから・・。」と言ったものだった。成長するにつれて、知らず知らずのうちに、そうか男は泣いちゃダメなんだ・・・と刷り込まれてきたためか、私はどうも高校生が努力が実らず負けてしまって、くやしさのあまり泣いてしまうと分かっていても、何かあまり見たくないものを見せられるようで、感動など感じないのである。
多分、昔から野球場では連日、あのような光景が繰り広げられてきたのだろうが、それを報道する側が、報道するにさして価値ある場面だとは認識しなかったのか、あるいは惻隠の情がそこまでするのを抑えたのか、、、私は後者だと思いたい。
いつだったか、その時の状況も定かに記憶していないが、男子フィギュアスケートの選手が大きなミスをしてメダルを逸したときの、廊下でのインタビューの際、話しかけている途中で、「ちょっと・・・」と言ってその場から消え、数秒後に「すみません・・」と言いながら、戻ってきたことがあった。
彼は、突然込み上げてきた嗚咽をこらえるため、廊下の奥に走っていき、呼吸を整えて戻ってきたのだった。作り笑いする彼の顔は、とても清清しいものに見えたものだった。
一方、同年代だろうにその正反対に立つスケート選手もいた。彼は号泣して見せるのが「売り」になっていき、それを今では商売の糧にしているようなところがあるようだ。
泣くという所作は、単なる感情の発露の結果だけではなく、見ている人に何かをアピールする場合の、重要なパフォーマンスとなる場合がある。ある国では、路上で突然口論が始まり、次第にエスカレートして罵りあいになることが日常茶飯のように見受けられるそうだが、それも通行人に「いかに自分の主張の方に正当性があるか」をアピールしたいがためのパフォーマンスなのだ、と何かで読んだことがある。
その証拠に、ワーワー泣いていたかと思うと、ある程度勝敗が見えてきて、ピタッと口論が終わってしまうことが多いそうだ。葬式などでも同じように、自分がいかに悲しんでいるかを周囲にアピールしようと、必死に泣き喚く、明らかに日本とは異なる文化があるようだ。
男が泣くのは親が死んだときだけだ・・と刷り込まれて大きくなった私は、高校球児やスポーツ選手、芸能人などが、カメラで撮影されているのも気にせず、オイオイ泣くのを見ると、どうも違和感を覚える。
やはり、男は人前でやたらと涙を見せるのを控えるという伝統的な文化があるのではなかろうか。それが少しずつ変化してきているのが、現状なのではなかろうか。
政治家も、芸能人と似たような境遇にある人気商売になっているので、最近はよく泣きじゃくるような場面が映し出される。採決を阻止しようと、二階席のカメラの方をチラチラ見ながら泣きじゃくっていた関西弁が饒舌な女性議員は、滑稽だった。
しかし、滑稽な議員と言えば、この方の右に出る人は今後も出ないだろう。
「日本を変えたい!」と号泣しながら訴えた、公費ピンハネ市会議員である。今でもあの会見の一部始終が動画サイトに残っているので、笑いたくなったらあの号泣シーンを見るといい。まったく、事実は小説より奇なり。お笑い芸人など歯が立たない、見事なパフォーマンスだったが、彼がしでかした汚職は最低なもので、この男に票を投じた有権者は恥を知るがいい。
悔し涙を袖で拭きながらシクシク泣きじゃくる選手たちを通路に座らせて、野球部監督が労をねぎらっていた。「お前たちみたいにな、・・・どうしようもない、・・出来の悪い子供たちが、あれだけ真剣にがんばる姿を・・・見せてくれるとな、・・・俺は・・泣けてくるわけよ・・ウゥ・・(泣)」ここで、選手たちの啜り泣きが一段と大きくなる。まるで、三流スポーツ根性ドラマの一シーンのような映像が、またもやダラダラ流されていた。
私が子供の頃は、母親は何かというと、すぐ「泣いちゃダメだよ。男の子なんだから・・。」と言ったものだった。成長するにつれて、知らず知らずのうちに、そうか男は泣いちゃダメなんだ・・・と刷り込まれてきたためか、私はどうも高校生が努力が実らず負けてしまって、くやしさのあまり泣いてしまうと分かっていても、何かあまり見たくないものを見せられるようで、感動など感じないのである。
多分、昔から野球場では連日、あのような光景が繰り広げられてきたのだろうが、それを報道する側が、報道するにさして価値ある場面だとは認識しなかったのか、あるいは惻隠の情がそこまでするのを抑えたのか、、、私は後者だと思いたい。
いつだったか、その時の状況も定かに記憶していないが、男子フィギュアスケートの選手が大きなミスをしてメダルを逸したときの、廊下でのインタビューの際、話しかけている途中で、「ちょっと・・・」と言ってその場から消え、数秒後に「すみません・・」と言いながら、戻ってきたことがあった。
彼は、突然込み上げてきた嗚咽をこらえるため、廊下の奥に走っていき、呼吸を整えて戻ってきたのだった。作り笑いする彼の顔は、とても清清しいものに見えたものだった。
一方、同年代だろうにその正反対に立つスケート選手もいた。彼は号泣して見せるのが「売り」になっていき、それを今では商売の糧にしているようなところがあるようだ。
泣くという所作は、単なる感情の発露の結果だけではなく、見ている人に何かをアピールする場合の、重要なパフォーマンスとなる場合がある。ある国では、路上で突然口論が始まり、次第にエスカレートして罵りあいになることが日常茶飯のように見受けられるそうだが、それも通行人に「いかに自分の主張の方に正当性があるか」をアピールしたいがためのパフォーマンスなのだ、と何かで読んだことがある。
その証拠に、ワーワー泣いていたかと思うと、ある程度勝敗が見えてきて、ピタッと口論が終わってしまうことが多いそうだ。葬式などでも同じように、自分がいかに悲しんでいるかを周囲にアピールしようと、必死に泣き喚く、明らかに日本とは異なる文化があるようだ。
男が泣くのは親が死んだときだけだ・・と刷り込まれて大きくなった私は、高校球児やスポーツ選手、芸能人などが、カメラで撮影されているのも気にせず、オイオイ泣くのを見ると、どうも違和感を覚える。
やはり、男は人前でやたらと涙を見せるのを控えるという伝統的な文化があるのではなかろうか。それが少しずつ変化してきているのが、現状なのではなかろうか。
政治家も、芸能人と似たような境遇にある人気商売になっているので、最近はよく泣きじゃくるような場面が映し出される。採決を阻止しようと、二階席のカメラの方をチラチラ見ながら泣きじゃくっていた関西弁が饒舌な女性議員は、滑稽だった。
しかし、滑稽な議員と言えば、この方の右に出る人は今後も出ないだろう。
「日本を変えたい!」と号泣しながら訴えた、公費ピンハネ市会議員である。今でもあの会見の一部始終が動画サイトに残っているので、笑いたくなったらあの号泣シーンを見るといい。まったく、事実は小説より奇なり。お笑い芸人など歯が立たない、見事なパフォーマンスだったが、彼がしでかした汚職は最低なもので、この男に票を投じた有権者は恥を知るがいい。