孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

街に溢れる新老人たち

2015年07月05日 | 日記
前の東京都知事の石原慎太郎氏は、最近元気だろうか?あの方が靖国神社を参拝したとき、マスコミがお決まりの「公人か、私人か?」と質問すると、石原氏は決って、「下らないことを聞くな!」と相手にしなかった。

また、定例の記者会見で、朝日新聞だったか、毎日だったか、若い記者が「今年は靖国神社を参拝する予定はあるか?」と質問すると、「当然、参拝する。」と答えた。「それは、私人としてか、公人としてか・・。」と言うと、「両方だ。君はどういう考えだい?」と逆に聞いた。

若い記者は、「意見は言えないので・・・」とか、ボソボソ言って躊躇していると、「君の会社では、自分の意見を言うと、くびになるのか?」と、催促した。記者は、「私人ならば問題ないが、公人としては問題が・・・」と言う意味の事を言いかけた時、「バカな事言うなよ、お前ら!どこの国の人間なんだ、貴様ら!・・・」と一喝して、その記者をたしなめた事があった。

自らを、「暴走老人の石原です・・・」と言って、笑わせる石原氏だが、こういう暴走老人なら、私は歓迎する。むしろ貴重な存在だと思う。

しかし、年金に不満があるといって、新幹線内でガソリンを撒いて焼身自殺をするような「暴走老人」は、社会の敵でしかない。

今や、日本人の4人に1人は、65歳以上の高齢者だそうだ。昼のスーパーに行けば、客の大半は高齢者であることは珍しい光景ではない。しかし、我々には、街に溢れる高齢者は、みな今日の日本を築いた方たちで、皆、経験豊富で、分別のある若者の範となる方たちだという、偏った思い込みがあるようだ。

「暴走老人!」(文芸春秋刊)の著者、藤原智美氏が、その中で語っている。「分別あってしかるべきとされる老人が、ときに不可解な行動で周囲と摩擦を起こす。あるいは、暴力的な行動に走る。こうした高齢者を私は『新老人』と呼ぶ。」

さらに、「・・・身近でもかつてないほど、新老人が目につく。常識のタガが外れて怒鳴りちらす彼ら、無害だと見られていたお年よりたちの暴力、周囲とトラブルを繰り返す身勝手な年老いた人々・・・

・・・それは社会から見れば異物感をともなう不可解な世代に見える。つまりは、『暴走する新老人』である。」そして、著者は続けて、「・・・やがては自分も新老人の列に加わるという『不安』」が、私を衝き動かす。誰しもいつかは老人になるのだ。」と、心情を吐露していて、この部分、特に共感を持った。

精神科医師の和田秀樹氏の「困った老人と上手につきあう方法」(宝島社新書)によると、人間の脳の老化は、まず「前頭葉」から始るそうだ。そして、この「前頭葉」は人間の理性を司る場所で、「この部分が最初に衰えると、感情を抑制する、様々な欲求を我慢する、社会のルールに従う、あるいは相手の気持ちを慮るというような、人間として高次の機能のコントロールがしにくくなるということが起こる」という。

さらに前頭葉の老化は、性格を先鋭化することになるそうだ。つまり、元々頑固な人が益々頑固になったり、元々猜疑心の強い人が、益々つよくなったりするという現象だ。

この早ければ40代から始まるという、前頭葉の老化を防ぐ方法はあるのだろうか。和田氏によると、意識して前頭葉を使う生活をすべきだという。「ハラハラ、ドキドキ、ワクワクの感情体験を楽しんで前頭葉を刺激すればよい。新しいこと、未知の体験にチャレンジすべきだ」そうだ。

世の風潮として、老いは避けたいことであり、老人はリスペクトされない存在になっている現状では、「困った老人」や「暴走老人」は増え続けることは避けられそうもない。どうやら、日本は正解の見えない問題を提起されているようだ。

ニュースのその後。

2015年07月05日 | 日記
マスコミ各社は、報道の自由と言う言葉に非常に敏感で、最近は自民党議員と小説家の会合を盗み聞きして、その内容について、言論弾圧だと大騒ぎしている。

小説家にも言論の自由はあるだろうし、盗み聞きする行為も決して褒められたものではない、いかにも「羽織ゴロ」のやりそうなことである。

報道の自由には、報道しない自由もあるのか、TBSのワシントン市局長が見つけた、ベトナム戦争中の韓国軍の従軍慰安婦の存在を証明するエビデンスについては、自社では一切報道せず、それどころか、支局長を地方の営業職に左遷していた。

報道の自由には、事実をあえて隠して報道する自由もあるのか、朝鮮半島出身の帰化人が、日本中の神社仏閣に油を撒いて汚した犯人の素性を記事にせず、その後の追跡報道もまったくない。犯人はどこで何をしてるのだろうか。

気になるのは、トヨタの違法薬物密輸疑惑の女性重役のその後である。あれだけ白を切っていた広報のプロは、無実を証明できたのか。鹿爪らしく、身内を庇う謝罪会見をした豊田社長は、結局身内に裏切られたのだろうか?

誰か教えてくれ。 天邪鬼は、ニュースのその後が気になる。

外国特派員?だから?

2015年07月05日 | 日記
よく、日本人は他人の目を気にし過ぎる、と言われる。『世間様』は何と言うか。『近所の人』はどう見るか。

さらに、最近のニュースや報道番組では、お決まりのように、「さて、外国の特派員はこれをどう見ているのでしょうか。」と言って出すのが、「外国特派員協会」での記者会見の映像である。日本人の多くは、外国人はすべて良識ある「正義の人々」だと勘違いしていることを逆手に取っているような気がしてならない。

正式名称は、The Foreign Correspondents' Club of Japan 、略称 FOCJ 。壁に貼られた幕の中央には、Est.1945 と見える。日本の敗戦の年である。



その発端は、占領軍GHQ マッカーサーの指示で、日本占領の「正義」を世界中に流布させ、日本を二度と西欧に逆らわせないよう、日本を貶めるために設立された情報発信基地、いわゆるプロパガンダ機関だった。

「貶(おとし)める」とは、「下落させる」、「下に見て軽蔑する」という意味で、「汚(けが)す」と似た言葉である。「きれいなもの、美しいものを汚くする」「名誉や名声に傷をつける」と言った方が理解しやすいだろう。

ちょっと前、フランスの過激な風刺画で悪名高い、シャルリー・エブドという週間新聞社がイスラム教を侮辱した下品な絵を載せたことで、襲撃され多数の記者が亡くなった事件があった。

マスコミは、押しなべて報道の自由を訴え、襲撃した方を批判しまくった。その時のタイミングで、FOCJは、いわゆる「従軍慰安婦」の捏造記事を書いた元朝日新聞記者を招いて、会見を開かせた。それまで、取材を嫌って逃げ回っていた元記者との利害が一致して、彼は見事に被害者面をして、反省するどころか進軍ラッパを吹きまくっていた。



あるいは、みんなの党の女性都議会議員が野次を受けて、野次をした方が白状して謝罪する、という瑣末な出来事が起きたとき、FOCJはその女性都議を招いて、会見を開かせた。目立ちたがり屋の都議は、これまた芝居がかった会見で、とても見続ける気にはなれなかった。



日本を貶めるネタだと見れば、すぐに会見を開き、世界に発信するパターンは、70年間続いている。

そして、今大騒ぎしている安全保障論議である。FOCJ は合憲を主張する憲法学者を招いた。そのとき、フランス人記者が日本大学の百地教授が、毅然とした態度で、すばらしい正論をもって論破したのだった。



仏記者 :「日本が1930年代のような侵略戦争をしないと、どうして言えるのか?」
百地教授:「なぜ日本が権利を行使した場合だけ侵略に繋がるのでしょうか」
「フランスは集団的自衛権を全面的に行使することが認められていますが、そのフランスが侵略しないけれども、日本は侵略する可能性があるのではないか。これは明らかに日本という国に対する不信感であって、私は到底受け入れられません」

仏記者 :「私たちフランス人は、フランス憲法を尊重している(から侵略はしないんだ)」
百地教授:「もしそれでも(日本を)信用できないというのだったら、かつて奴隷制を採用したフランスが、いつまた奴隷制を採用するかわからないという議論につながると思います」

会場には失笑と拍手が湧き、そのフランス人記者はふてくされた態度で反論できなかったそうだ。この記者の頭の中は、日本人に対する差別意識が充満していて、何とか貶めようとする魂胆がよくわかった。例の「戦場にかける橋」や「猿の惑星」を書いた元脱走兵のフランス人のことを思い出したが、この記者もそれと同類だろう。

外国特派員協会というと、「正義」「良識」を備えた外国人記者が集まっていると考えてはいけない。昔から、極東にはまともな記者など派遣されないことは知られていた。そういう札付き達が、今協会の幹部になっている。

肩書きやお墨付きに極めて弱い日本人は、それに惑わされないよう、「疑心」という目薬を常備しておくべきだ。