浅間の煙

じいさんの気ままな独り言

来年用の肥料を運搬・ほていそうを畑に移す

2011-12-15 22:19:45 | Weblog
12月15日(木)。朝の気温ー5℃。晴れ。
 古文書学習会のお知らせを有線本部に届け依頼して、資材部に行き注文してある24年用の肥料を引き取って自宅に運び物置小屋に入れた。
 そのあとJA西部支所にいき用事を済ませてからはりなしホッチキスを戴く。
 午後も植木鉢の片づけをした。池から引き上げたほていそうが乾いてきたので、いちりん車で畑の角に運んで拡げておいた。いちりん車で5回も運んだ。
 夜はお悔やみの葉書を印刷した。

望月歴史講座『災害と一揆』~戌の満水・天明の大噴火~

2011-12-14 21:08:54 | Weblog
12月14日(水)。朝の気温ー5℃。晴れ。
 気温がまたぐっと下がって寒い日となった。家の周りの片づけ仕事をした。妻はOKさんに編み物を教わりに出かけた。
 夜は望月歴史民俗資料館の歴史講座があり出席した。斉藤洋一先生が講師で、『災害と一揆』~戌の満水・天明の大噴火~に付いて話された。寛保2(1742)年の大洪水で千曲川流域の死者は2800人と言われている。天明3(1783)年の浅間の大噴火は三ヶ月も続いたと言う。被害は群馬県側が大きかった。軽井沢では宿場町の186軒の内51軒が焼けてしまったという。その上4~5尺ほども灰や軽石が積もってしまった。なほ天明の飢饉は天明2(1782)年から6年もの間冷害続きで作物が実らず、大飢饉と成り、天明の上信騒動が起こった。このとき上田藩で捕らえられたものが30人牢に入れられたまま病死してしまった。その中に立科の芦田の住民恒八(26歳)も亡くなっている。この事は今まで表に出されていないので町誌にも上田市誌や北佐久郡誌にも書かれていない。上田藩の記録『日乗』に記録されていると言う。43人が捕縛され未決のまま牢で30人もの人が死亡しているのである。この一揆による死亡者がほとんど佐久の人々であった。なほ町奉行配下の同人に捕まった70人の内8人は江戸に召喚されたが無事に戻っている。その8人の中にも芦田宿の良蔵が含まれている。今までの上信一揆の記述には無い事から、改めてこの一揆を考えて見る必要が有る。

賛助会佐久短歌を楽しむ会12月例会と忘年会

2011-12-14 05:11:20 | Weblog
12月13日(火)。朝の気温0℃。晴れ。
 9時に家を出て長和町にMさんを迎えに行き、佐久に向かう。中込のホテルで賛助会佐久短歌を楽しむ会の12月例会を、10時からホテルの会場で開催した。12時まで歌会をしてそのあと忘年会である。歌会はYさんの司会で進めた。私は『沢山の喪中葉書を受け取りて震災被害とダブりて甚し(いたし)』と詠んだ歌を提出した。昨日現在で喪中葉書が77枚届いている。例年をはるかに越えてしまった。忘年会はカラオケあり、フラダンスあり語らいありで楽しく過ごした。帰宅は3時半であった。それから車の燃料を入れに行った。2台とも満タンにした。妻は児童館のお手伝いで万華鏡作りをしてきたという。

歯医者に行く・野沢菜の最後の収穫

2011-12-13 00:38:32 | Weblog
12月12日(月)。朝の気温ー2℃。晴れ。
 8時40分の予約だったので、早く歯医者に行く。治療が9時前に終わって郵便局により、菜ないろ畑に行き野沢菜の様子を見る。買い物があったのでつるやの開店まで30分ほど菜ないろ畑でストーブに当ててもらって待っていた。開店と同時に1番に店内に入り、頼まれた買い物をして帰宅。
 仕事に掛かろうとした所に早速、菜ないろ畑から電話があり、野沢菜の注文が入る。そこで外の仕事をやめて野沢菜の収穫に行き、残っていたのを全部収穫してしまった。明日の朝届ける事にして倉庫の中に入れておいた。

コイン精米と袋詰め

2011-12-13 00:21:15 | Weblog
12月11日(日)。朝の気温ー3℃。晴れ。
 今週の後半は天気が余り良くない様なので、天気のよい今日の内に精米をして置きたいと思い、米を5袋運び出しコイン精米に行く。今回は全てが1袋200円で出来た。今までは300円が普通であったのに、用意した硬貨がゆとりが有って良かった。幸いこぬかと籾殻も少々あって袋に入れて持ち帰れた。帰宅して10キロ袋に移し変え16日に坂城に持参できるようにして、片づけ終わったら正午を過ぎてしまった。
 午後は家の周りの片づけで終わる。