なーんもさ

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砂川に孤児院があった

2014年01月25日 | 生活

人と人のつながりは摩訶不思議なものです。

北海道新聞の「いずみ」欄に度々投書していた砂川市の女性がいました。

すてきな文章を書く方で一度お会いしたいものだと思っていました。

 

たまたま、編み物サ-クルの方がすてきな編み針入れを持っていたので、

「いいねえ、ほしいわあ。」と言ったら、お隣にいた方が、

「おばさんなら出来るかも。良かったら作ってもらうけど。」と。

出来上がった編み針入れを頂き、あまりにもすてきなので作った人のお名前を聞いたら

投書の方でした。驚きました。

感激してお礼やら「いずみ」欄のお話を電話でしました。

 

去年、ある場所で偶然その方とお会いしました。

先日、その方から砂川市の「郷土研究」という冊子を頂きました。

そこにはその方の文章が載っていました。

明治時代に砂川にあった孤児院の話が書いてあったので、その話を聞いていたら、

図書館にある本を紹介してくれました。

シリ-ズ 福祉に生きる 「山谷源次郎」 平中忠信著

を読みました。

その本には、砂川に明治28年に孤児院を開いた「山谷源次郎」さんの話が書いてありました。

その頃日本には2カ所しか孤児院がなかったそうで、その一つが砂川にあったことに驚きました。

 

孤児院は昔の三井木材の近くにあり、多くの子ども達を養育していたらしいです。

明治39年の院の記録によると

「救済したる者544人、現在の院在留者92人なり」とあります。

 

山谷源次郎さんは能登の生まれです。

生涯45年間も孤児院で多くの子ども達を助けた人です。

函館に明治18年に孤児施設を創設し、小樽から砂川に来て孤児院(本院)を作り、

札幌、旭川、夕張、本州では東京、群馬の沼田、そして樺太等に支院や分院を開設しました。

 

官庁の援助を一切断り、自力で運営をするために、三井木材の仕事、

お菓子作り、楽隊を作り演奏活動、幻灯や映画の上映、お祭りの香具師(やし)等をして

資金を作り運営したそうです。

 

山谷孤児院は捨て子、孤児、貧児らを我が子同然に温かく養育したそうです。

収容者は年令を限定せず、幼児から、貧困の母子、障害者など困っている

あらゆる人たちに救いの手を述べました。

  

官庁に頼ると年令、収容人数、障害者を入れない等の制限があったので断ったようです。

もし、官庁に頼っていたら、無名の人に終わらず、日本の歴史に残る人になっていたでしょう。

 

 山谷源次郎さんが孤児院を開くきっかけとなった精神の原点が、群馬県太田市の

浄土宗大光院にあります。

「呑竜(どんりゅう)師」が開設したお寺で、呑竜師は困窮した農民が子どもを間引いたり、

捨てたり、売ったりしてるのを見て、その救済をしたというのです。

その呑竜師の心の深さや広さと真宗の教えをここで学んだことが山谷さんの孤児救済の

原点になったようだとこの本に書いてありました。

 

私はその群馬県太田市の生まれです。

そして、大光院の「どんりゅうさん」は、家から歩いて行ける場所にあり、家族で度々遊びに行ったと

昔語りで、母や姉たちから聞いていた懐かしい名前でした。

私はまだ小さくて覚えてはいませんが、「どんりゅうさん」と聞くと、B29の爆撃で

家が焼かれる前の幸せだった子どもの頃を思うのです。

 

R子さんのおかげで、名も知れず功績を残した方を知り、しかも自分が生まれた

場所まで発見した一冊の本との出会いでした。

R子さんに感謝です。

 

 

 

 



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