指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『一遍聖絵』

2019年03月10日 | 演劇

高校以来、多くの芝居を見てきたが、こんなに変な劇を見たことがない。

それは、劇の内容や筋のことではなく、役者の演技の仕方である。

高校の文化部演劇班に入ったとき、最初に言われたのは、無駄に動いてはならないということであり、大学の劇団でも「動くときは意味がないといけない」だった。

そうしないと、役の人物の内部がわからないし、それに感情移入できないからである。

その通り、結構入念に作られた脚本だとは思うが、まったくどこにも誰にも感動できなかった。

作・演出は、白石征で、藤沢で「遊行かぶき」をやってきて、14年ぶりに遊行かぶき公演をするというので、藤沢の湘南台文化センターに行く。

長谷川逸子設計の未来都市のような建築も、時を経て汚れて錆び、かつてのソ連邦の人工的な都市のように薄汚れて奇妙なリアリティを作り出していた。1980年代のバブルの象徴の一つというべきだろうか。

                

一遍は、前から興味を持っていて、どこだか忘れたが聖絵を見たとき、その踊り念仏絵は、明らかに狂熱であり、現在的に見れば、ロックコンサートの熱狂を感じた。

一幕目は、一遍が男女の弟子たちと共に、地方を流離い、念仏踊りをしながら、お札を配り、衆生を救済していくことで、ついには京都まで入って、民衆を狂熱に巻き込んでいく。

ただ、冒頭に書いたように、役者たちは、台詞を言うときは、必ず体を動かし、左右に場を変え、舞台上をうろうろするので、見る者の視点は定まらず、どこにも感動が得られない。

2時間が過ぎてなんとなく、会場が明るくなり、まさか終わりではないな、と思うと「休憩10分間」のアナウンスがあり、数人の客は出ていく。それは当然だと思ったが、私は最後はどうなるのかと残る。

二幕目は、一遍が妻子と別れ、また実の男子は、自分の弟としていた、若き日のことと、晩年の死への軌跡が描かれる。

随分と屈折した前半生だったのかと思うが、それもそれだけのこと。

J・A・シーザーの音楽は、和讃を基にしたもので、劇に合っていたが、歌詞は全く理解できず、「六道輪廻」のみ理解できただけ。

また、政太夫の説教節は、始めは良くなかったが、次第に調子が出て、最後は非常に良かった。

演出の白石は、寺山修司の周辺にいたらしいが、元は編集者で、劇作や演出は経験がないようで、前述のようなすごい演技になっていた。兼好法師曰く、

「何事にも先達はあらまほしきことなり」というべきか。

藤沢市湘南台文化センター

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。