指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

怒りのとうよう

2021年10月07日 | 音楽

1960年代、テレビ界で「怒りの」と言えば、『アフタヌーン・ショー』の桂小金次だったが、音楽界では、『ミュージック・マガジン』の編集長・社長の中村とうようだった。

当時編集部にいた藤田正さんによれば、とうようさんは出社して怒りまくり、そのまま帰ってしまったこともあったとのこと。

だから、とうようさんは、ラジオ、テレビ等に出ていたが、長く続いたものはほとんどない。

どこかで喧嘩になってしまったのだろうと思う。

           

私も「怒りのとうよう」を目撃したのは、1988年9月の「ヒューマンライツ・ナウ・コンサート」だった。

当時、私はパシフィコ横浜でオープニングイベント担当だったので、アムネステイ・インターナショナル日本支部から優待券をもらって入った。

私と当時結婚していた妻、友人の下川博夫妻、さらに私の妻の弟夫妻の6人で東京ドームに行った。

因みにこの3夫婦は、全部離婚しているのは、時代と言うべきか。

途中、貴賓室で飲食をしたりなど、最高の一日だった。

そして、中村とうようさんと一緒に席で見た。

とうようさんにとっては、セネガルのユッスー・ンドールが少ししかやらなかったのが不満だったようだ。

また、多くのアーチストが出たので、バンド・チェンジに時間が掛かり、ご不満だった。

「こういう時間は、誰かが話して繋ぐものだが、日本ではまだだね」

「たけしなどが出て、繋げば良いのに」と言うと、

「たけしじゃ無理だよ」と軽く否定された。

日本のアーチストでは、竜童組で、これにはかなりがっかりだった。

そして、ブルース・スプリングスティーンになる。

すると、席に座っていた人たちが、一斉に立ってステージへと殺到した。

とうようさんは言った、

「みんな、ブルース・スプリングスティーンを見に来ただけのなのか!」

「とうようさんは、嫌いなんですか」

「俺も好きだよ」だった。

 


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