小津安二郎映画に出た原節子の作品の内、俗に「紀子三部作」と言われる『晩春』『麦秋』『東京物語』のそれぞれのクライマックスで、原節子が号泣していることからアプローチしたユニークな小津映画論である。
他の小津安二郎産業本に比べて、かなり独自の視点で、『晩春』での最後の京都旅行の夜の意味、原節子と笠智衆の「近親相姦的」意味を否定している。
それは蓮實先生やドナルド・リチーから言われたもので、他にも類似した観点での批評がある。
だが私も、小津安二郎のモラルから見て、あの場面にエレクトラ・コンプレックスの意味を付与するのは相当に無理があると思う。
ただ、多くの論者にそう書かせたくなるほど、原節子は一見は慎ましやかに見えて、実は大いに性的なのである。
それを筆者は、「原節子の反社会性」のよるものと書いているが、さらにそれがどこから来ているのかの言及がないのは私には大いに不満である。
反社会性というよりは、むしろ反道徳性というべきで、それは言うまでもなく義兄熊谷久虎との問題に起因していると私は思う。
また、『東京暮色』への言及が少ないことも私には不満だったが、小津安二郎産業本の中では、極めて個性的な本のひとつであることは間違いない。
他の小津安二郎産業本に比べて、かなり独自の視点で、『晩春』での最後の京都旅行の夜の意味、原節子と笠智衆の「近親相姦的」意味を否定している。
それは蓮實先生やドナルド・リチーから言われたもので、他にも類似した観点での批評がある。
だが私も、小津安二郎のモラルから見て、あの場面にエレクトラ・コンプレックスの意味を付与するのは相当に無理があると思う。
ただ、多くの論者にそう書かせたくなるほど、原節子は一見は慎ましやかに見えて、実は大いに性的なのである。
それを筆者は、「原節子の反社会性」のよるものと書いているが、さらにそれがどこから来ているのかの言及がないのは私には大いに不満である。
反社会性というよりは、むしろ反道徳性というべきで、それは言うまでもなく義兄熊谷久虎との問題に起因していると私は思う。
また、『東京暮色』への言及が少ないことも私には不満だったが、小津安二郎産業本の中では、極めて個性的な本のひとつであることは間違いない。
原が、引退したのは、実兄のカメラマン会田吉夫の家族との関係だつたと私は思うのです。
会田を殺したのは、熊谷の異常な撮影法、御殿場線の真ん中にカメラを置かせたので、疾走してきた列車に会田は撥ねられて死んだのです。
これは、円谷英二に言わせればバカな撮影法で、線路上に鏡を45度で置いておけばよかっただけのことなのだそうです。
1960年代初頭に会田が亡くなって原節子は、引退していますが、たぶん会田の家族にそれまで金銭的補助をしていたのではないかと思うのです。