指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「叙勲は死んでも、墓石に刻めるからだ」そうだ

2015年04月30日 | その他

昨日、春の叙勲受章者が出ていて、俺様の石原慎太郎の名もあった。

「俺様も貰うのかね」と思うが、勲章は皆お好きなようだ。

この叙勲の手続きも非常に面倒なもので、私も横浜の市会事務局にいる時、その事務作業を横で見ていて、文章の読み合わせを手伝ったことがある。

まず、希望する者の履歴、功績調書を作る、まあ美文、作文である。

それを横浜市総務局の秘書課を通じて、神奈川県、そして総務省章勲局に提出して貰う。

こういう事務は、すべて市からはできず、県を通じて行うことになっている。

ここから先は、行政職員のものではなくなり、議員の仕事になる。

もちろん、国会議員の出番で、大抵は、県選出の自民党の参議院議員にお願いをするのだそうだ。

金銭が絡むのかどうかは、われわれは関知しない。

まあ、平安時代から「売位売官」は、貴族の収入源の一つだったのだから、参議院議員は現代の貴族だったのかもしれない。

それくらいかつての参議院議員は、お暇だったわけである。

 

さて、なぜこのように皆さんは、勲章を欲しがるのだろうか、ある方に聞いたことがある。

答えは次のようなものだった。

「人間には、食欲、性欲、名誉欲の三欲がある。この内、食欲と性欲は死んだら終わりだが、名誉欲、つまり叙勲は墓に刻めるので、死んでも残るからだ」そうだ。

墓に刻んだところで、どうだと言うのかとは思うが。

ところで、私の父も勲章を貰っている。学校の校長をやっている時に死んだので、死亡叙勲で、勲何等かを貰った。

こういうのは例外なので、極めて早く手続きしてくれるもので、父の正式な葬式の際は、祭壇に飾られていた。

もちろん、父の墓には勲位などは刻まれていない。生前に死者を知る者の心に刻まれていればよいのである。