猫じじいのブログ

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加藤陽子の『天皇と軍隊の近代史』、原武史の『昭和天皇』

2023-01-09 23:57:49 | 天皇制を考える

父親の昭和天皇がなぜ戦争を止められなかったのか、上皇(平成天皇)が自問していたと、昨年末、テレビで保坂正康が話していた。戦争とは1941年12月8日に開戦した日米戦争のことである。戦争を止めるチャンスは、開戦を決めた御前会議の1941年にも、日本とドイツの敗戦が明らかになった1944年にもあったのである。

加藤陽子の『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房)を読んでいると、天皇に軍隊を動かすチャンスがないように思えてくる。

「徳川幕府を打倒した明治維新政府は、若くて未熟な明治天皇を形式的に戴く、薩(鹿児島藩)長(山口藩)土(高知藩)肥(佐賀藩)など旧雄藩勢力による連合政権に他ならなかった。」(p.98)

明治維新政府にとって、天皇とは、国民統合の象徴であった。道具である。

長州藩出身の政治家、伊藤博文と山縣有朋は、維新の実力者がそれぞれ私兵を蓄えていては、いつ内乱か起きるかわからない、と考えた。政争から軍隊を隔離するには、軍隊を国民皆兵にし、軍隊を国家に直属させるしかないと考えた。すなわち、徴兵制と天皇の軍隊統帥権である。

伊藤博文と山縣有朋の誤りは、国民を信用しなかったことだ。議会を設置したが、議会や政府と並び立つものとして、軍隊を置いたことである。

保坂正康は、戦前の日本の軍人はエリート集団であったという。維新の元老が政治権力を失うなかで、議会から規制を受けぬ軍人たちが自分たちこそ日本を統治できると思うのは自然の流れかもしれない。

歴史家は、ともすれば、歴史が必然で動いているように思いがちである。歴史を必然とすれば、閉塞感に襲われる。歴史に流れに逆らう選択肢が常にあると思う。選択肢があるということは、統治者の責任を問うて良いということだ。

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原武史の『昭和天皇』(岩波新書)、『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)は、昭和天皇に焦点をあてて、戦争責任を問うている。

明治天皇は、明治維新政府によって、神輿に乗せられて京都から江戸に無理やり連れてこられた人である。無口な人で、しかも、国民の前に姿を現すことがなかった。明治維新政府が創った宮中儀式への参列をもさぼっていた。政治にも関心がなかった。しかし、自分が神であると思っていた。

大正天皇も創られた宮中儀式をさぼり、政治に関心がなかった。しかし、洋風の生活が好きで、宮中でダンスやビリヤードに興じていた。自分を神と思っていたかは不明だが、明治天皇と違い、旅行好きで、おしゃべりで、ひねくれていて、スケベだった。政府にとって、無口な明治天皇と違い、神格化が難しかった。

昭和天皇は、明治天皇や大正天皇より近代人である。自分は天照大神の末裔であると信じていたが、自分自身は神ではない、普通の人間であると思っていた。しかし、昭和天皇は、明治時代にノスタルジアを感ずる者たちの期待の星だった。彼らは、大正天皇を甘やかしすぎたと思いから、昭和天皇にそれぞれ厳しい教育を行った。いっぽうで、昭和天皇が、祖母や叔母など女に囲まれ、愛情に恵まれて育った、と原武史は言う。したがって、昭和天皇は、政治に関心があるいっぽうで、ビリヤードやゴルフや粘菌などの生物学研究に興じた。これは戦前の話である。

原武史が一貫して注目するのは、昭和天皇の、母親との確執、また、弟たちに権力を奪われるという不安である。二・二六事件の際、弟の秩父宮に権力を奪われるのでないかの恐怖が、反乱軍の素早い鎮圧に昭和天皇を向かわせたのだと私も思う。じっさい、陸軍にいた秩父宮は反乱を起こした人脈と関係をもっていた。

同様に、1941年の御前会議では、日米開戦に踏み切らないと、政権の主流から見捨てられると昭和天皇は思ったのではないか。

当時、ドイツは共和国で、君主制ではない。イギリスは君主制だから、昭和天皇はイギリスに親近感を持っていたはずである。ナチスのドイツと運命をともにしたいはずはない。

それでも、昭和天皇は、権力の中枢にとどまりたいから、三国同盟を容認し、日米開戦に同意したのだと私は思う。

1945年8月の原子爆弾の惨状を知るまで、昭和天皇は降伏に踏み切れなかった。弟の高松宮が降伏を自分に勧めていたからである。やっていたことは、賢所(かしこどころ)で天照大神に助けてくれるよう祈ることであった。

昭和天皇が自分の座にこだわることは戦後も続いた。戦犯として巣鴨拘置所に収容された木戸孝正は昭和天皇に日本の占領が終了したとき、退位するように勧めた。中曽根康弘も昭和天皇の退位を求めた。しかし、昭和天皇は絶対に退位することはなかった。

原武史は『昭和天皇』につぎのように書く。

「天皇が責任を感じる対象は第一に「神」であり、第二に「大宮様」であり、その次が「国民」である」(p.155)

ここで「神」は天照大神で、「大宮様」は自分の母である。

上皇(平成天皇)が老齢を理由に退位したが、昭和天皇が戦争の責任をとらなかったことに対する異議申し立てでなかったのか。

原武史は昭和天皇に戦争責任があると言う。責任があるとは、戦争を回避する、あるいは、戦争を早期に終結する選択肢が天皇にあったとするのである。

また、原武史は、護憲を口にする上皇(平成天皇)が、宮中で天照大神の神への祭祀を続けていたことに危惧を述べる。昭和天皇と同じく、いまだに天照大神の末裔であることにこだわっているのだろうか。

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戦後の日本国憲法の瑕疵は、天皇制を存続させたことである。

皇族が法の下の平等(憲法14条)から除外されている。また、憲法第7条の

「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。(中略)三 衆議院を解散すること。(以下略)」

を、政権党の党首が利用している。自分の都合の良いときに衆議院を解散し、選挙で自分の政党に有利な立場を取ろうとしている。天皇制は社会に政治に歪みを生じさせている。

天皇はいらない。天皇制を廃止すべきである。



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