猫じじいのブログ

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即位の礼を無視し、島薗進の『神聖天皇のゆくえ』を読む

2019-10-22 21:52:13 | 天皇制を考える



きょう、10月22日は即位礼正殿の儀である。何か古式な伝統の儀式をやっているように見られているが、明治時代以降になって創作された怪しげな儀式の1つである。きょうは、令和天皇が、大正天皇のために作られた高御座(屋根付き台)にのって、安倍晋三の万歳三唱を受けた。

こんな日は、島薗進の『神聖天皇のゆくえ 近代日本社会の基軸』(筑摩書房)を読むことを勧める。この本は、ぜひ、若い人に読んで欲しい本の一冊である。

島薗の書く本は、これまで、学究的で、かたくて、読みづらいものだった。ところが、この本は、みんなに読んでもらうため、構成に工夫を凝らし、漢字に仮名をふり、ですます調で書いている。島薗は日本社会に危機感を覚えているからである。

島薗はまえがきに次のように書く。
「社会にはさまざまな人がいますが、人々の共通の信条が集合的に強い力を発揮することがあります。近代国家の形成の時代には、皆が同じ考えや感情を分け持つ傾向が強まりました。学校、戦争、メディアの影響が大きいです。国家制度が人々の考え方や振る舞い方を方向付けていくのですが、逆に人々の考えや感情が国家を動かすような事態も生じます。」

私なりに言い換えると、次のようになる。
近代にはいり、多数の人が政治に参加できるようになると、それに危機感をおぼえた小規模な集団が国民の意識を操作しはじめた。操作された国民のなかの多数派が他の国民の言論を抑圧し、非合理的な考えが社会を支配し、国家が暴走し、社会を破滅にみちびいた。

日本は、90年前、日中戦争、日米戦争(太平洋戦争)に国民を動員し、1945年の敗戦(無条件降伏)で、アメリカの占領地となった。

現在、このことを国民が忘れ、道徳教育が学校で堂々となされ、同調圧力に屈する若者が増え、政治不信で投票率がさがり、安倍政権のもとで国家機密保護法や共謀罪法や安保法制が国会で通り、韓国への制裁がメディアに支持され、皇居のなかに神道儀式を行う建物が3つもある。これでは、島薗進でなくても、危機感をいだくであろう。

島薗は、明治初期には人々の関心を引かなかった天皇が、どうして、神聖視されるようになり、天皇のために死ぬのが社会規範になったかを、本書で解明する。

島薗によれば、古代での日本統治の安定に寄与したのは、仏教であり、中国にならった律令制であった。それだけでなく、圧倒的に強力な中国の属国として埋没しないため、すなわち、辺境の地の王国として自己主張するため、伊勢神宮を立て、『古事記』(712年)や『日本書記』(720年)を創作した。

しかし、文字を読める人々は限られ、『古事記』『日本書記』は国民になんの影響力がなかった。しかも、これらの書は、天つ神(天皇家)を国つ神(豪族)の上に置くものだから、豪族にとって受け入れられないものだった。

それでも、創作された日本の神々は、本地垂迹の信仰の形で、仏教の土着化として生き残った。

近代の神聖天皇は、直接的には、幕末に始まる。『大日本史』を編纂した水戸学である。幕藩体制を強化するために、宋時代の儒教の朱子学を取り入れる。君臣関係の意義を強調し、臣下の忠義を重んじる思想だが、徳川家康は天皇から将軍職をさずかったことになっているので、尊王の思想にいたる。尊王攘夷は水戸学に始まる。

島薗はここに着眼し、明治以降の流れを、天皇制を自分たちの統治の正統性に利用しようとする伊藤博文ら明治維新の元老たち(立憲君主派)と、天皇の親政を求める祭政教一致派の綱引きで日本の近代を見る。伊藤博文は天皇の政治への関与を阻み、祭政教一致派は天皇の神格化の方向に走る。教育勅語に象徴される学校教育、軍人勅諭に象徴される軍人規律に、神聖天皇の考えが浸透する。

私は、神聖天皇を掲げる祭政教一致の支持基盤は、じつは、薩長閥からもれた士族だったのではないかと思う。薩長閥からもれた士族にとって、勉学に励み、天皇の軍人か大臣か学者になるしかなかったのではないか。昭和天皇に太平洋戦争を奏上した東条英機は、盛岡藩の士族の末裔である。

もちろん、民本主義のもとに、彼らには、経営者になる、国会議員になる道もあった。じっさい、1898年に日本の最初の政党内閣が伊藤博文の支持の下に生まれる。1918年に首相になった政友会の原敬も盛岡藩の士族の末裔であった。

しかし、明治の元老たちが死んでゆき、祭政教一致派への重しがなくなるとき、軍部の暴走が始まり、神聖天皇を支持する国民が軍部を後押しし、さらに暴走が強まる。天皇のために死ぬことが美化される。

私が思うに、天皇の神格化の可能性をもつ疑似宗教的要素、明治以降に創作された儀式を排除せず、象徴天皇制をつづけることは、伊藤博文が天皇機関説を守り切れなかったことと同じ誤りに導く。即位の儀に反対すべきである。

また、元老たちが死んでいなくなったとき、民本主義の政党政治が簡単に覆ったのは、共産党やアナーキズムを弾圧し、右翼を放置したからと思う。政府が、日本会議や神道政治連盟を取り締まらず、中核や革マルだけを取り締まるのは、間違っている。

島薗の『神聖天皇のゆくえ』は、近代日本の歴史の理解を助け、今後の日本のあり方にヒントを与える。



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