「安倍晋三的なもの」を ようやく きょう、宇野重規が朝日新聞の《論壇時評》でとりあげた。
ところで、この論壇時評のタイトルは、デジタル版と紙版とでは異なる。デジタル版では『「安倍元首相的なもの」の正体は あふれる言説と宇野重規さんの視点』となっている。いっぽう、紙版では、『安倍元首相的なもの 継承か克服か 正体見定めて』となっている。紙版の「安倍元首相的なもの」のところだけでがなぜか小さな文字になっている。宇野重規自身がつけたタイトルは何であったのだろうか。
朝日新聞のタイトルは、どちらも腰がひけている。それに加え、宇野重規自身も朝日新聞《論壇時評》の中立性を尊重しての時評となっている。
それでも、慎重に読めば、「安倍晋三的なもの」を日本から払拭しなければという宇野の本心が伝わる。
彼の論壇時評から言葉をひろってみよう。
「安倍氏に批判的な人々がしばしば問題視するのが、立憲政治や権力分立への干渉である」「政府の制度的多元性がゆるがされ、縁故と補助金と口利きのシステムが構造化したのが安倍政権である」
「安倍元首相を評価する人々にとって、継承すべき「安倍元首相的なもの」とは何か」「けれども、その多くは、自らの都合に合わせて恣意的に安倍氏に言及している」「「日本の国はまだまだ強い」と思いたい刹那的な願望を満たしたのが安倍元首相であった」
すなわち、安倍は、日本の左翼やリベラルをぶっ殺せという「敵愾心の激しさ」をのぞけば、中身が何もなく、「安倍政権とは戦後日本の仕組み行きづまった先にある、その極北のような存在」であった。
問題は、この「安倍晋三的なもの」の亡霊が日本社会をまだ覆っていることだ。
2020年の8月に安倍晋三が大腸炎カタルの悪化で首相を辞任した時点で徹底的に叩くべきだった。2021年のトランプからバイデンに政権が移行した段階でも、安倍晋三的なものを排除するチャンスがあった。2022年の7月に安倍晋三が殺害されたときにもチャンスがあった。安倍は熱心な統一教会の信者であったことも判明した。
中身のない「安倍晋三的なもの」の亡霊が日本を徘徊することによってビックモータ事件のような社会モラル崩壊が起きている。沖縄が日本防衛の楯というのは、本土の勝手な論理であるのに、どんどん沖縄の基地が強化されていく。アメリカ防衛のために日本が中国と戦う必要がないのに、なにかそれが必然のように世論操作が行われる。原発が日本に必要ではないのに、それが必要なような世論工作も行われている。
「安倍晋三的なもの」の継承か克服かではなく、否定しかない。
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