猫じじいのブログ

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憲法記念日、樋口陽一のインタビュー 、危惧から怒りに

2019-05-03 20:08:08 | 憲法

きょう5月3日は日本国憲法記念日である。朝日新聞は樋口陽一のインタビュー記事を載せていた。同じ記事なのであるが、紙版とデジタル版とはタイトルが違う。
デジタル版のタイトルには「憲法学者・樋口陽一氏の危惧」とあるが、紙版では「危惧」という言葉がない。樋口陽一は、国民の良識を信頼して、危惧していないのだろうか。

「安倍晋三氏とその周辺が旗を振る形での改憲ということになれば、幅広い支持に至らず挫折するでしょうね」という。
その理由は、安倍とその周辺が、「言葉を積み重ねることで公共社会に共通の枠組みを築き続けていく――そういった文明社会の約束事をあまりに軽んじる政治家たちだからです」だそうだ。

84歳の樋口陽一はボケているのではないか。人間の歴史は殺し合いの歴史でもある。「文明社会の約束事」は何の意味ももたない。勝つか負けるかの戦いが常に継続しており、互角の状態で、はじめて「文明社会の約束事」が守られるのである。

憲法12条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とあるのは、権力者が憲法さえ踏みにじる可能性があると、危惧しているからである。

1950年代の「自主憲法」の旗印での改憲が実らなかったのは、敗戦のショックが日本人の心の中に残っており、民主主義がまだ生きていたからである。

ところが、現在、休日には交番に国旗が掲揚され、大学を含む公立学校では儀式に国旗掲揚と国歌斉唱がなされ、戦前の修身と変わらぬ内容の「道徳」が正式教科になっている。子どもたちは、お上と同じ意見をいわないと人生に損をすると思っている。

現在、民族主義が民主主義を押しのけているように見えるが、民族主義の実態は、劣等感と無気力のかたまりである。だから、よけい始末が悪い。

樋口は、憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」が「個人」でないといけないという。その点では、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』と同じで、多数派というものを信用していない。
この多数派というものが信頼できないのは、人間は自分の利益を優先しがちであり、無力感が社会に充満していれば、容易に勝ち馬に乗ろうとするからだ。多数派ということは正しさの証明にならないのだ。
そして、中身のない多数派は、弱い者いじめを始める。

たとえば、テレビは、ごみ屋敷といって、社会的に孤立している老人をいじめる。東京湾の貝を食べるといって、貧しい中国人をいじめる。日本が外国人労働者に頼っているのに、池に外来種がいるといって、池の水をぬき、みんなで外来種を殺すさまを放映する。人間としてのやさしさと寛容がテレビから消えている。

たとえ多数派の意志であろうとも、政府やメディアや社会が、個々の人間から自由を奪っていけない、と、ミルのように思うなら、ミルのように正面をきって、社会と戦わないといけない。

そのためには、樋口も、自分が考える正義とは何か、社会に正面をきって言うべきである。

インタビューの最後に、「人口の減少、財政の破綻、国としての友人がいない日本の姿……。ぼけっとしていていいのか、といいたくなります。これは決して自虐ではありません」と樋口は言う。怒っているのなら、怒りを前面にだすべきだろう。しかし、ボヤキの対象が、「国力の衰え」に関するもので、権力による「自由」「平等」「民主主義」の侵害ではない。

情けない。ボケている。ボケている。

象徴天皇は日本国憲法の傷である。象徴天皇が世襲制と結びつく限り、象徴天皇は子どもを作るための家畜になる。「個人として尊重」が無視されている。憲法3条以降にかかげる象徴天皇の仕事は、AIつきの泥人形でもできることである。国会の長たる参議院議長に任せればよい。天皇制は廃止すべきである。

また、憲法に「権利と義務」と書くのはおかしい。戦前の大日本国憲法の名残であって、「義務」はすべて削除すべきである。義務とは強要のことである。これは、「個人の尊厳」に相反する。

また、人権を「国民」に限定するのはおかしい。「人間」に置き換えるべきである。人間が国境を越える時代である。外国人労働者にも人権がある。

「安倍晋三とその周辺」に逆襲しないと、権力に従順で、弱い者いじめの好きな人間が、どんどん社会に増えていく。


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