きょうのTBS『報道1930』で、統一教会の2世問題を論じていた。もっと一般化させた形で、約3週間前、NHK『時事公論』で「旧統一教会と“宗教2世”問題」の解説をしていた。
「宗教2世」とは「特定の信仰・信念を持つ親・家族とその宗教的集団の元で、その教えの影響を受けて育った子ども世代」のことを言うらしい。
「宗教2世」の問題は、幼い時から親に繰り返し教え込まれ、学校でも孤立してしまう。親を信じる・あるいは信じるふりをしないと生きていけない。自治体の窓口に助けを求めても、「行政は宗教問題には介入できない」と言われたり、「家族のことはまず家族で話し合って」と言われたりする。そういう問題だという。
NHK解説委員は「親が自分の意志で特定の宗教を信じるのは自由だが、それは、子供を抑圧する理由にはなりません。信教の自由があるからこそ、『宗教2世』問題への支援が必要だ」と結論づけた。
この問題を、宗教に限定せずに考えてみたい。
私は若いとき妻子を連れて海を渡った。日本に研究の職がなかったからである。私には研究者としての誇りがある。ボスとなった教授にはずいぶん気を使ってもらった。いっぽう、妻にとっては、これまでの誇りを失う。周りの女の人はみんな自分より背が高い。日本にいたとき美人だとちやほやされていたが、周りの女の人のほうが美人に見えてしまう。4年して日本に戻ったとき、5歳になった息子は、アジア人がテレビでヒーロー役をやるとびっくりしてしていた。
個人にとって何を良しとするか、何を誇りとするかの価値観は、家族のあいだで異なるのだ。
そのとき知り合った日本人の大学教授の場合は、勤務先の大学内の争いに嫌気がさして海を渡ってきた。小学校高学年の男の子がいたが、こちらの学校では数学などが日本よりゆったりと教えられるので、天才児童と見なされた。しかし、その子は、どうも、ずっと天才でいることができず、本人にとって、周りと顔や姿が違うということのほうが、重く感ずるようになり、父親ともなじめず、金儲けを人生の目的としたが、それにも成功せず、カルフォニアのどこかで自殺してしまった。
子どもは、価値観の違う親に自分は振り回されたと感じるようだ。自分は普通で良い、みんなと同じでいたかったと思うようである。
さらに深刻なのは、親が社会活動に参加した場合である。親がみんなを幸せにしたいと願った場合、当然、権力者から弾圧される。たとえば、会社内の不正を見つけて告発しようものなら、即座に嫌がらせを受ける。給料が減る。首にされるか、やめたくなるようにいじめられる。一家は貧乏になる。バカな父親が社会に歯向かうからこんなことになる。クソ親父は死ねということになる。
人間は理想をもってはいけないのか。理想をもつと、家族がどうして物質的に不幸にならなければいけないのか。社会は理想をもつ人間を、本当は、必要としているのではないか。
最後に、もう一つ、事例を加えよう。ユダヤ人の男は、生後8日目まで、ペニスの包皮を切り落とすこと(割礼)になっている。包皮が切り落とされるのは本人の意思ではない。しかし、ナチスが男のズボンをずりさげ、割礼の痕を見つけたら、強制収容所にいれ、殺した。割礼を施した親が悪いのか、殺すナチスが悪いのか。私はナチスが悪いと考える。
社会活動家の子どもや移民の子どもや統一教会の子どもやエホバの会の子どもや創価学会の子どもをいじめる世間も悪いと、私は言いたい。
その上で、家族のあいだでは、価値観の違いについて理解し合い、互いに寛容であればよいと私は思う。
【補足】
私は安倍晋三を極悪人だと思っているから、「国葬」には反対である。