先日の朝日新聞《耕論》で、「発達障害バー」のオーナーの光武克が記者に「発達障害の傾向が強いと診断されたのは30代になってからです」と話していた。私のNPOでも、「ASDの傾向がある」とか「ADHDの傾向がある」とかの診断を受けた子どもたちがよくやって来る。
ところで、私は精神科医が本人や親に「××障害の傾向が強い」言うのはどうかと思っている。というのは、精神科医の扱う診断名は症候群にすぎないからである。認知や情動に現れる症状を分類したのにすぎない。「傾向が強い」というのは、「××障害」とは分類できないが、症状の一部が重なっているというのにすぎない。それなら、こういう症状(傾向)がでていると言えば良いのだが、それでは精神科医の権威がバカにされるし、保険料請求で困るので「××障害の傾向が強い」と診断するようである。
しかし、「発達障害」というと非常にバラエティに富んだ症候の分類で、「生まれつき」しか共通項がない。本当に医師が「発達障害の傾向」と診断したなら、無責任きわまると私は思う。
光武自身の自己分析「私は幼いころから気になることがあると、のめり込むタイプ」のほうが適確だと思う。
ところが「自分は発達障害である」とか「自分はASDである」と思うことで、気持ちが楽になる人たちがいる。
光武も「仕事や家庭で何でうまくいかないかを突き詰めたとき、これまでの振る舞いが障害と結びついたのです」と話す。
これは障害だから自分が悪くないと言っているのだと私は思う。しかし、これはレッテル(刻印)を受け入れ、多くのひとが「発達障害」だから、自分も特に悪くない、と思うのに過ぎず、本当の解決にはならないと私は思う。
光武は「周りと比べて苦しまなくてもよい、割り切れるようになったのは最近のことです」と正直に話す。
どう割り切ったのかいうと、「自分が貢献できるところで能力を発揮できれば、人より劣る部分で卑屈にならなくてよい」と気づいたからである。
であれば、「発達障害の傾向が強い」なんて言われる必要がない。
人はそれぞれ個性が異なる。1つの尺度で個性をはかる必要はない。
「のめり込む」のは集中力が強いということだから、営業には向いていなくても、企画、開発、研究、生産活動では長所となる。「のめり込む」タイプでも、濃い愛情を受け入れるパートナーでは、すばらしい夫婦生活を送れる。浮気しなければ良い。
私自身も、心配性のところがあるが、昔、上司に「慎重である」と褒められたことで、すごく気持ちが軽くなった。
よく「発達障害」は「個性」であると言う人がいるが、それなら、その「個性」がポジティブに働く場所や場面を指摘することで、はじめて、「発達障害の傾向」という言葉で卑屈になった人たちを救うことができると思う。
また、「仕事や家庭で何でうまくいかないか」を本人の「障害」や「能力」と結びつけず、問題を解決する技術を教える/学ぶことのほうがだいじである。忘れっぽいなら、仕事や生活をルーチン化し、曜日で違う仕事とか、ミーティングとか歯の治療とかなどを予定表に書き、必ず見る習慣をつければ良い。