『西尾亮平先生追悼集』を一気に読んだ・・・
『タカ研』の今井会長さんから西尾先生のスケールの大きさを折に触れて聞いてはいたが、今回、“追悼集”を読んで改めて心の広い先生だったんだと知った。
そして、岐阜県では、“ヘボ”の先生、師匠で通っていた!!!
この“追悼集”に80数名の方々(ご家族、学生時代の同級生、教師仲間、幼友達、教え子、それから蜂狂仲間等)から在りし日の西尾先生の思い出が寄せられているが、異口同音に語られている事は、“ヘボ”の先生・研究家だった事、物凄い読書家だった事、曲がった事が嫌いで正義感溢れる熱血漢だった事等が述べられている・・・そして、生徒からは、亮平先生で罷り通り、ザックバラン、面倒見が良い為、憧れの先生だったと言う・・・
高校の社会科:西洋史の教師だった事もあり、益田高校、中津高校、瑞浪高校等転勤されていたようだが、どの高校に行ってもビニール・ハウス等の“ヘボハウス”を建てられ、“ヘボ”の研究をされていた・・・
授業が無い時は、職員室には居い。“ヘボハウス”か、図書館だった。
言うまでもなく、“ヘボ”の研究が専らで、空いた時間、本を読み漁っていた・・・
この“追悼集”を読んで、在りし日の先生の逸話を沢山紹介したと思うのだが、スペース的にも限界があるので、3点に絞りたい。
1.大変な蜂狂だった!!!
何れの高校でも授業以外、ヘボハウスに常駐・・・其処には、教科書や読書の本が満載されていた。同僚先生、生徒は、“ヘボハウス”を訪れたと言う・・・
そして、この“ヘボハウス”で、今日、我々が、盛んにやっている『ヘボの交尾蜂捕獲』を編み出した!!!そして、惜しげもなく我々蜂狂に公開し、“ヘボ”激減の危機を救ってくれたのだ・・・そして、交尾蜂の越冬法を見出し、“ヘボ”増殖と言う途轍もない手法を見出してくれた・・・
同僚先生、教え子が言うのに、亮平先生の手には、何時も、砂糖水の入ったスプレイがあり、“ヘボ”ちゃんに与えていたと言う・・・
ここで、逸話を一つ・・・
修学旅行で厳島神社界隈に出掛けたらしい。そこで、生徒は、予科練上がりの軍隊調パリパリの指導官からカヌーの訓練を受けたと言う。この指導教官、厳格過ぎて、気に入らない生徒を『岐阜に帰せ・・・』と、言い出した。
この訓練中、亮平先生はと言うと、何と、山に入り、“蜂追い”をしていた!!!
これも気に入らない要因となり、二人して追い返されたと言う・・・
この追悼文を読み、腹を抱えて笑いたくなった。実に、西尾先生らしく豪快で、頼もしく、自然体で素晴しいと思った。
2.聞きしに勝る読書家・・・
西尾先生の読書量は桁が外れていた!!!特に、東洋史、古代中国・韓国の歴史観は軍を抜いていたと言う・・・一頃は、漢字辞典10数冊を置き、漢文をナマで読破した。かなりの教養がないと出来ない相談だ・・・
そして、引退されてからは瑞浪図書館通い、又、病院のベットにあっても本から手を離す事はなかった。
yも、西域(敦煌・楼蘭等)物は大好きなので、チャンスがあれば、先生の教えを請いたかった。
3.誰からも好かれる自然体、正義感溢れる指導者・・・
何時も、常に自然体の亮平先生・・・同僚先生、生徒から好かれていた。
圧倒的な亮平フアァンが居た!!! だから、授業が終わると、ヘボハウスに飛び込み、“ヘボ”との会話・・・誰も何も言う筈がなかった。。。
“追悼集”を読んでいて、先生を応援したくなるような追悼がザラザラでてきた。
こんな事を書くと叱られるかも知れないが、我々蜂狂に“ヘボ”をググット曳き寄せてくれる為に西尾先生が居たのかも知れない? この橋渡しをしてくれた事に感謝を申し上げねばならない・・・
『全国蜂サミット』設立の実質功労者、交尾蜂・越冬の研究、ヘボコンテスト・講演会での功績等々考えると、本当に惜しい師匠を失った。
今頃、松浦先生、加藤名人等と高度なヘボ談義をしているのかなぁーーー?
人間:西尾亮平先生の人生の一端を紹介させて頂きました。
写真は、亡くなられる2ヶ月前、11月12日、豊田市・石野町で開催された、ヘボコ・ンテストで計量されている先生と三宅さん・・・(魚眼レンズで御免ね…)