東京都品川区の住宅街に「わいわいてい」という古ぼけた一軒家がある。30~40歳代の重度知的障害者4人が暮らすグループホームだ。58歳で急逝した倉林邦利さんが01年6月に仲間たちと設置した。今は、長女菜絵さん(31)ら2人の専従職員と3人の非常勤の計5人が交代で共に寝起きする。
「障害者も地域で暮らすべきだ」。福祉施設で働いていた父邦利さんの口癖だった。40歳のころ、くも膜下出血で倒れたのを機に「あとは好きなことをする」と宣言して中古住宅を手に入れ、知的障害者と暮らし始めた。まだ、「グループホーム」という言葉もなかった時代だ。
小学生だった菜絵さんは、「お父さんを奪われた」と思った。障害を理解できない子からいじめにも遭った。「NPO法人による新しいグループホームを作るので協力してほしい」と邦利さんから声がかかったのは、高校を卒業しフリーターをしていたころ。どうしても「下の世話」ができず、自分には無理だと思っていた。迷った末に引き受ける決心をしたのは「どうして父は他人のためにここまで頑張るのか」という、子供のころからの疑問の答えを知りたかったからだ。
01年6月、「わいわいてい」がスタートしたが、邦利さんは肺がんで翌02年7月に死去。運営は菜絵さんらが中心に行った。入所者は言葉をほとんど話せない。生活リズムが少し狂っただけで食事を受け付けなかったり、パニックになったり。でも、空腹になれば胸をたたき、お風呂に入りたい時は髪を引っ張るなど、仕草や表情で「会話」する。
「やめたいと思ったこともあります。やっぱり父にはかなわないって。でも、父が頑張った理由が少し分かったかもしれません」
菜絵さんは、自分が必要とされている毎日に生きがいを感じている。
「障害者も地域で暮らすべきだ」。福祉施設で働いていた父邦利さんの口癖だった。40歳のころ、くも膜下出血で倒れたのを機に「あとは好きなことをする」と宣言して中古住宅を手に入れ、知的障害者と暮らし始めた。まだ、「グループホーム」という言葉もなかった時代だ。
小学生だった菜絵さんは、「お父さんを奪われた」と思った。障害を理解できない子からいじめにも遭った。「NPO法人による新しいグループホームを作るので協力してほしい」と邦利さんから声がかかったのは、高校を卒業しフリーターをしていたころ。どうしても「下の世話」ができず、自分には無理だと思っていた。迷った末に引き受ける決心をしたのは「どうして父は他人のためにここまで頑張るのか」という、子供のころからの疑問の答えを知りたかったからだ。
01年6月、「わいわいてい」がスタートしたが、邦利さんは肺がんで翌02年7月に死去。運営は菜絵さんらが中心に行った。入所者は言葉をほとんど話せない。生活リズムが少し狂っただけで食事を受け付けなかったり、パニックになったり。でも、空腹になれば胸をたたき、お風呂に入りたい時は髪を引っ張るなど、仕草や表情で「会話」する。
「やめたいと思ったこともあります。やっぱり父にはかなわないって。でも、父が頑張った理由が少し分かったかもしれません」
菜絵さんは、自分が必要とされている毎日に生きがいを感じている。