障害者スポーツに理解を
鳴門市生まれ。現在は栃木県日光市に住み、来年のパラリンピック・ロンドン大会出場を目指して、シッティングバレーボールチーム「栃木サンダース」でプレーしている。「年齢的にもパラリンピックはロンドンが最後。障害者スポーツの待遇改善のためにも金メダルを取りたい」と意気込む。
シッティングバレーは床に座った状態で行うバレーボール。女子は2004年のアテネ大会からパラリンピックの正式種目となった。
鳴門市・黒崎小でバレーを始めた。ポジションはアタッカー。市立第一中学でも活躍。県内の強豪・富岡東高ではインターハイや国体にも出場して、注目された。高校生選抜メンバーとして海外遠征にも参加した。「私にはバレーしかないと思っていた」と振り返る。
高校卒業後は、実業団の名門・日立製作所に入った。「憧れのチームに入れて、夢の五輪に近づいている」と実感していた。しかし、順風満帆に思われた人生は、20歳の若さで一変した。
日課の体育館の掃除のため、バケツに水をくみに行こうとした時だった。突然、体を自分の両足で支えることができなくなった。両膝の血液の流れが悪くなり、骨の一部が壊死(えし)する病気だった。小学生の時からバレーボールで両膝を酷使したためで、医師には「もうバレーはできない」と言われた。頭の中が真っ白になった。
松葉づえが手放せない生活を送っていた頃、実さんと出会い、22歳で結婚。日立製作所を退社し、長男を授かった。
バレーとは縁遠い生活を送っていた。しかし、01年に、日立製作所のチームメートで、全日本のセッターとして活躍した中田久美さんと、シッティングバレーボール女子日本代表の真野嘉久監督から「もうすぐ合宿がある。やってみないか」と誘われた。「ジャパンのユニホームを着たい」。長くバレーから離れている不安もあったが、「やっぱりバレーが好き」と競技を始める決心をした。
2008年パラリンピック・北京大会に出場したが、出場8チームで最下位に終わった。「世界の壁の高さを感じた。プレーが全く通用しなかった」と悔しがる。
昨年12月、中国・広州で開催されたアジアパラ競技大会に出場し、チームの銀メダル獲得に貢献した。この大会で、来年のパラリンピック・ロンドン大会の出場権をつかみ、自身も日本代表候補に選ばれた。「最低限の目標だったロンドンへの切符は取れた。同じアジアで世界ランク1位の中国を倒せばメダルを取れるはず」と考えている。
代表候補の中で最年長。8月には久しぶりに鳴門に戻り、泉理彦市長を表敬訪問した。「健常者のアスリートと同様に、障害者も頂点を目指して頑張っている。違うのは、たまたま障害を持ったということだけ。パラリンピックで戦う私たちのことをもっと知ってほしい」。スポーツを愛する情熱は衰えを知らない。
(2011年9月6日 読売新聞)
鳴門市生まれ。現在は栃木県日光市に住み、来年のパラリンピック・ロンドン大会出場を目指して、シッティングバレーボールチーム「栃木サンダース」でプレーしている。「年齢的にもパラリンピックはロンドンが最後。障害者スポーツの待遇改善のためにも金メダルを取りたい」と意気込む。
シッティングバレーは床に座った状態で行うバレーボール。女子は2004年のアテネ大会からパラリンピックの正式種目となった。
鳴門市・黒崎小でバレーを始めた。ポジションはアタッカー。市立第一中学でも活躍。県内の強豪・富岡東高ではインターハイや国体にも出場して、注目された。高校生選抜メンバーとして海外遠征にも参加した。「私にはバレーしかないと思っていた」と振り返る。
高校卒業後は、実業団の名門・日立製作所に入った。「憧れのチームに入れて、夢の五輪に近づいている」と実感していた。しかし、順風満帆に思われた人生は、20歳の若さで一変した。
日課の体育館の掃除のため、バケツに水をくみに行こうとした時だった。突然、体を自分の両足で支えることができなくなった。両膝の血液の流れが悪くなり、骨の一部が壊死(えし)する病気だった。小学生の時からバレーボールで両膝を酷使したためで、医師には「もうバレーはできない」と言われた。頭の中が真っ白になった。
松葉づえが手放せない生活を送っていた頃、実さんと出会い、22歳で結婚。日立製作所を退社し、長男を授かった。
バレーとは縁遠い生活を送っていた。しかし、01年に、日立製作所のチームメートで、全日本のセッターとして活躍した中田久美さんと、シッティングバレーボール女子日本代表の真野嘉久監督から「もうすぐ合宿がある。やってみないか」と誘われた。「ジャパンのユニホームを着たい」。長くバレーから離れている不安もあったが、「やっぱりバレーが好き」と競技を始める決心をした。
2008年パラリンピック・北京大会に出場したが、出場8チームで最下位に終わった。「世界の壁の高さを感じた。プレーが全く通用しなかった」と悔しがる。
昨年12月、中国・広州で開催されたアジアパラ競技大会に出場し、チームの銀メダル獲得に貢献した。この大会で、来年のパラリンピック・ロンドン大会の出場権をつかみ、自身も日本代表候補に選ばれた。「最低限の目標だったロンドンへの切符は取れた。同じアジアで世界ランク1位の中国を倒せばメダルを取れるはず」と考えている。
代表候補の中で最年長。8月には久しぶりに鳴門に戻り、泉理彦市長を表敬訪問した。「健常者のアスリートと同様に、障害者も頂点を目指して頑張っている。違うのは、たまたま障害を持ったということだけ。パラリンピックで戦う私たちのことをもっと知ってほしい」。スポーツを愛する情熱は衰えを知らない。
(2011年9月6日 読売新聞)